1.「教室がそのまま司令基地になり、学校全体が変形してロボットが発進する」という慧眼
今回、私がおすすめする作品は、『絶対無敵ライジンオー』です。
いわずと知れた「絶対無敵ライジンオー」は、1991年から1992年にかけて放送されたサンライズ制作のロボットアニメで、その後の「元気爆発ガンバルガー」、「熱血最強ゴウザウラー」と続く「エルドランシリーズ」の記念すべき第1作目となります。
「絶対無敵」。
この冠タイトルに示される圧倒的なカタルシスに、当時の中二病患者の私が期待しないわけがありませんでした。
古いオタク老人会の皆さまならば、「無敵」と関するロボットアニメといえば、
「無敵超人ザンボット3」「無敵鋼人ダイターン3」「無敵ロボ トライダーG7 」と、それぞれとても個性的な作品が多いわけなのですが、今回の「絶対無敵」というインパクトは計り知れないわけでして。
「え、『絶対無敵』!? 敗北しないの前提?」
と、私の脳内に当然といえば当然すぎる疑問が渦巻きますが、、本放送を正座しながら待ちわび、OPが始まると、そんな杞憂はすぐ吹っ飛びました。
白背景に黒文字、でっかいフォントで、
「絶 対 無 敵」
と流れる文字、オープニングテーマ「ドリーム・シフト」の清々しいまでの高揚感。
「これは――今までと違う!」
そんなオタク特有の『嗅覚』が、このアニメに対する「圧倒的安心感」を感じたのは、その後本放送をエアチェックし、VHSビデオで当時の友人に『布教』する、という流れになるのは必然といえば必然だったのかもしれません。
あえてストーリーを語るのは恐縮ではあるのですが、かいつまんで説明を致しますと、
五次元世界から現れた「ジャーク帝国」の侵略に対し、地球の守護者「エルドラン」との戦闘シーンと、不覚をとるエルドランが、地球のごく平凡な町の小学校「陽昇学園」5年3組の授業中に墜落するところから始まります。
陽昇学園5年3組のわんぱくな少年「日向 仁(ひゅうが じん)」、クールで優等生キャラの「月城 飛鳥(つきしろ あすか)」、そして「星山 吼児(ほしやま こうじ)」をはじめとするクラスメイト18人全員は、エルドランから、自分に代わって地球を守るよう、コマンダーと呼ばれるメダルを託し、教室そのものを司令基地へと作り変えて消え去りました。
「え? 教室そのものが基地!?」
テレビ画面に食いつく私が、そこにはいました。
2.「アークダーマ」という画期的な「悪の概念」
その後、三次元侵略帆本格的に開始するため、ジャーク帝国の幹部ベルゼブと、その部下のタイダーは、要塞ジャークサタンから地球へ向けて、邪悪の源である「アークダーマ」を大量にばらまきます。
「アークダーマ」というネーミングは可愛らしいですが、これが飛んだ曲者なのです。
1.「身近な迷惑」を具現化する存在
普通ならば、ばらまかれた「アークダーマ」が、それぞれ、何らかの怪獣なりメカなりに変形成長する――とするのが一般的な発想ですが、画期的な点だったのが、「アークダーマ」事態は、何ら無害な、そのまま放置していても(放置はだめですが)卵のように付加するわけではありません。
「アークダーマ」は、人々が「嫌だな」「困ったな」と感じるもの(=迷惑)に反応して取り付き、それを巨大化・怪獣化させます。
現に第1話では、「放置された粗大ゴミ」の「迷惑だな」に反応し、「邪悪獣エザイガー」が誕生してしまいます。
他にも、和数が進むにつれ、「テストの答案用紙」「工事の騒音」「渋滞」など、様々な「迷惑」だな、という「何気ない不満」に反応するのです。
これにより、子供たちにとって非常に理解しやすい「身近な脅威」が生まれる構造になっていました。
善意や理屈が通じない「厄介さ」
そうして生まれた「邪悪獣」は当初は妖精というか見た目は脆弱な、とてもこれから「悪意を持って破壊する」直接的な悪、とはならない存在です。
現に、どこで生まれるかわからないその「邪悪獣」を、部下であるタイダーが探して見つけ、上司である幹部ベルゼブに報告する作業が発生します。
「邪悪獣」は自分が成長するために「迷惑」という行為を行うことで、人々に「ストレス」「不満」を与えることで、その感情をエネルギー源として成長する存在でした。
部下タイダーが成長を見守る、という描写が秀逸です。
とてものんきな感じがユーモラスであり、その人間臭さが逆に「無害な悪」という逆説的な不可思議さを表現しているのです。
で、そんな状況を幹部ベルゼブがいつも叱責し、その「邪悪獣」に自信のパワーを与え、巨大「邪悪獣」として急成長させ、町中を直接破壊させるのです。
これは「具体的な迷惑」に他ありません。
「身近な迷惑」からの「直接的な破壊活動」への変化の過程、というのがとても丁寧に描かれている「絶対無敵ライジンオー」の慧眼がそこにはあります。
3. 迷惑は「願望の鏡」かもしれない
邪悪獣を生む「アークダーマ」は、単なる宇宙のウイルスではなく、「人間のエゴや身勝手さを投影する鏡」としての役割を果たしていました。
1.「楽をしたい」「逃げたい」という願望の代償
邪悪獣の多くは、子供(あるいは大人)が抱く「これさえなければ楽なのに」という身勝手な願望から生まれます。
・ 宿題がなければいいのに → 勉強を妨害する邪悪獣が誕生。
・ 野菜を食べたくない → 偏食を肯定し、食べ物を変えてしまう邪悪獣が誕生。
一見、個人の小さな願望を叶えているようで見えて、その実態は「社会のルールや秩序を破壊する存在」として具現化します。
つまり、個人のわがまま(願望)が、社会全体への「迷惑」に変換される仕組みです。
2. 便利な文明への「甘え」と「無責任」
アークダーマが「粗大ゴミ」や「放置された道具」に反応する点は象徴的です。
使い捨てへの願望: 「新しいものが欲しい、古いものは捨てたい(でも処分は面倒)」という人間の無責任な願望が、捨てられた物に宿り、邪悪獣となって襲ってきます。
これは、人間が便利さを追求する一方で切り捨ててきた「負の側面」が、怪物という形でしっぺ返しを食らわせていると解釈できます。
3.願望の「過剰な肯定」という恐怖
邪悪獣は、人間の願望を「極端な形で肯定」します。
例えば「静かにしてほしい」という願望に対し、世界中の音を奪って死の世界のように静まり返らせる、といった具合です。
人間の願望には常に「程度」がありますが、アークダーマにはそれがありません。
「人間が心に抱いたほんの少しの毒(願望)」を100倍にして突きつけることで、いかに自分たちの願望が独りよがりで、他者への想像力に欠けていたかを突きつける「鏡」となっていたのです。
4. 第10話「ガソリンが消えた町」 (The Case Study)
第10話において、「車がうるさい」という不満を感知したアークダーマから生まれた邪悪獣「ガソリンガー」が、「車がいなくなればいい」という願望を「ガソリンをこの世から無くせば、車は動けなくなる」でガソリンを貪り食ってしまう。
ガソリンがなくなる → 車がなくなる
という、一見するととてもストレートかつスマート過ぎる「迷惑行為」です。
この行為に、車などのガソリンに依存する機械はことごとく活動できなくなり、結果、町中に車などが走らない「静かでクリーンな環境」が完成してしまいます。
大人は迷惑がりますが、逆に子供にとっては、安全な遊び場が増えるという「子供の楽園」が完成する。
喜ぶ子供と迷惑がる大人、という対立関係が生まれますが、番組の視聴メイン層である「子供」にとってはどうか?
「いいんじゃない? 自由っぽくて」
しかし、クラスメイトの池田れい子は笑っていない。
実家のガソリンスタンドが廃業の危機に瀕し、引っ越し(転校)の話が出てしまうという、5年3組の危機的状況が発生してしまうのです。
引っ越しによって友達が居なくなるという「寂しさ」と、エルドランが5年3組のクラスメイトに与えた「コマンダーメダル」は、一つでも欠ける(存在しなくなる)と、ライジンオーが出動できない。
それどころか、5年3組という「指令基地」そのものが存在できなくなるという、冷酷な現実。
仁たちは「なぜ18人なんだ」「エルドランは勝手すぎる」と、自分たちが背負わされた運命の不条理さに直面し、子供らしい純粋な友情と、地球を守る責任との間で激しく揺れ動きます。
ここで登場キャラクターは、やっと気が付くのです。
「車がないと困る人」が、すぐ隣の席にいるというリアリティ。
ここが制作側が突き付けた「現実の恐怖」なのです。
5.「自由」が「楽園」ではないという問題提起
邪悪獣ガソリンガーがもたらした状況は、車に悩まされていた人々にとっては一見「自由(静寂)」を手に入れたように見えました。
極端な自由の果て
しかし、ガソリンがなくなった街は、移動手段も物資の供給も絶たれた「不便な世界」へと変貌しました。
「嫌なもの(車)がない自由」を手に入れたはずが、実際には「文明の恩恵を失った不自由」に陥るという皮肉です。
日常の再発見
登場人物たちは、普段「うるさい」「邪魔だ」と思っていたものでさえ、実は自分たちの生活を支えている一部であることに気づかされます。
「嫌なものがない世界=楽園」ではなく、「嫌なものとも折り合いをつけ、責任を持って共存する世界」こそが現実であることを学びます。
「自由には責任が伴い、不満の解消には代償がある」という教訓は、ロボットアニメの枠を超えた非常に教育的かつ哲学的なメッセージであり、当時の私も、その「身近な哲学」に学ばされたのでした。
6.「絶対無敵ライジンオー」から学んだこと
奇しくもOP曲は「ドリーム・シフト」という名称です。
今にして思うこと。
それは、「夢を大切にする思い」と「夢と欲望は隣り合わせの現実」であること、それと「夢や想いには責任・強さが伴う」とという一貫した哲学です。
ネタバレは防ぎますが、最終話で、登場人物「吼児」が試される「夢や希望への強い思い」が、結果、敵の心を砕くことにつながり、大団円を迎えます。
僕はあの時の「吼児」のような絶望的な状況でさえ、自分が信じた「夢や希望」を信じる強さを持ち続けることができるのか?
そんな問いを、皆さんもぜひ共有してほしいと思います。

※著作権者に最大限の敬意を示し、生成画像で表現させていただきました。


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