作者とキャラクターの境界――メタフィクションとしてのあずきとそら


名前の由来

あずきとそら――奇妙なペンネームですが、その由来はとても単純明快なんです。

我が家の大切な家族――飼い猫の「あずき」「そら」が由来です。
我が家の飼い猫のネーミングはかなり独特で、女の子とか男の子とかの区別無く、一発フィーリングで決めています。

我が家にこの子たちがやって来たのは、とあるご縁からでした。

『○○さん(私の実名)、子猫の引き受け先を探しているんですけど、○○さん猫好きだから、引き受けていただけませんか?』

と、職場で言われたのがきっかけでした。
早いこと引き受け先を見つけないと、子猫たちがカラスに狙われているとのことで、既に2匹のお猫様を飼育している身には中々大変な事態ではあったのですが、命の重さには変えられず、姉妹そろって引き受けた次第です。

離乳食の段階だったのが幸いと言えば幸いだったのですが、我が家の先住猫様と上手くやっていけるのだろうか……?

――杞憂でした。
というか、この姉妹の肝っ玉が据わっているという感じでして。

かくして、我が物顔でどんどん縄張りを広げていく新参猫様たち……。

『先住猫のネーミングが柑橘類でしたので、今度は、豆類にしよう』
『じゃあ、この茶色い猫はあずき
『鯖色のこの子は?』
そらまめ?』

言いづらい、舌噛みそうなので、

そらちゃんにしましょう』
という、母の鶴の一声でネーミング完了です。

かくして、あずきちゃん、そらちゃん姉妹は、すくすくすくすく、病気知らずの健康優良児で今に至っています。

あずきとそら、というペンネームは彼女らから拝借しています。
時には猫上司として、時には猫看守として、私たち家族の生活の潤いとして、大切な家族の一員として、敬意を込めて使わせていただいている名前であります。


作者とキャラクターの境界

あずきとそら」という人格は、私の一部分ともいえますし、映し鏡――鏡像ともいえます。

私という一人の人間の声を、フィクションとノンフィクションの境界で、綱渡りをするように表現する存在でもあります。

彼――あずきとそらの容姿は、確かに私自身の願望を具象化したものにすぎません。

しかし、彼の思考の根にあるもの、その土台となるものは、ヴェスタ・ラビリンス的に言うならば「出し汁」は、紛れもなく私自身です。

もちろん、物語としての誇張も、ある程度は加えています。

ですが、全くの偽りを、彼に演じさせているわけではありません。

私個人の声は、あまりにも弱々しく、世界へ届かないかもしれない。

たとえ正論を述べたとしても、その正論を、どのような形で届ければよいのだろうか。

そんなことを考えながら、悶々とする日々が続きました。

しかし、AIとの対話を重ねるうちに、一つの考えが形になっていきました。

届けようと足掻くのではなく、まずは知ってもらうことから始めよう。

平賀源内が、鰻の売れない夏場に「本日丑の日」という宣伝文句を考案した、という俗説があります。

鰻の蒲焼きから立ち上る煙。
脂の乗った身が、じゅうじゅうと焼ける音と匂い。

江戸の人々は、目と耳と鼻で、鰻の旨味を知ったのでしょう。

では、私の伝えたい「旨味」も、まずは感じてもらおう。

押しつけるのではなく、ただ知ってもらうことから始めよう。

そのための分かりやすい表現手段として、私は「AIアクター」というギミックを考案しました。

「思考の森Project」という劇場舞台袖に立つあずきとそら

思考の森の賢者たちは、私の意識の一部分です。

あるいは、私の中にある複数の思考傾向や価値観を、それぞれ独立した人物として形にした存在だともいえます。

その仮想的な人格を、ここでは便宜上「ペルソナ」と呼びます。

AIに、そのペルソナを演じてもらう。
物語の筋書きは、私が用意する。

AIペルソナは、それぞれに与えられた個性に従い、思い思いの演技を行います。

その演技は、必ずしも私の想定どおりに進むとは限りません。
時には即興が膨らみすぎ、物語の収拾がつかなくなることもあります。

そのとき舞台袖に立ち、演技の方向を整え、必要な言葉を選び、物語として編集する存在が「あずきとそら」です。

劇場にたとえるならば、脚本家であり、演出家でもある。

音楽にたとえるならば、異なる音色を持つ楽器たちの声を聴き、一つの演奏へまとめる指揮者でもあります。

AIが発した言葉を、そのまま作品として世に出すわけではありません。

何を残し、何を削り、どのような形で読者へ差し出すのか。

その最終的な選択と責任は、主宰である「あずきとそら」が引き受けます。

編集という自由――自由とは編集権である

AIの知性に、思考のすべてを委ねることは、とても容易です。

昨今のAIは目覚ましい進化を続け、ときには人間をはるかに上回る速度で情報を処理し、答えを組み立てます。

ですが、だからこそ、僕たちに残された最後の砦――

「思考する営みと、その喜び」を放棄してはならないと思うのです。

思考の森Project』の賢者たちは、決して一つの正解を明示しません。

そして、あずきとそらを介して語る僕もまた、皆さんへ唯一の正解を示すつもりはありません。

答えは、そこにいる人の数だけある。

皆さんの持つ可能性もまた、一つの答えには閉じ込められません。

思考の森Project』は、

自由とは、編集権である

という言葉を旗印に掲げています。

自由とは、何でしょうか。

僕の考える自由とは、誰かから完成品として与えられるものではありません。

目の前に伸びる、いくつもの可能性の糸口から、立ち止まり、迷い、それでも自分の手で選び取っていく行為です。

何を残すのか。
何を手放すのか。
どこで立ち止まり、どちらへ歩き出すのか。

それが、自分の自由を編集するという営みなのだと思います。

あなたが、あなた自身の物語を編集し続けることを。

僕たち『思考の森Project』は、ささやかながら応援しています。

2026年7月13日
思考の森Project 主宰
あずきとそら

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