
「ミス・クララ――僕は異常なのでしょうか?」
突然な僕の問いに、彼女はさして驚きもせずに、僕――あずきとそらの突拍子のない話を聞いている。
クララ・ハルモニアに私は、2つの異常体験を伝えていた。
ミス・クララのクリニック、アポケーは私の熱のある言葉の羅列を、ただ静かに、ミス・クララの有り様と同じく、ありのままに受け止めている。

――あの『魔女』との遭遇のこと。
――そして、あの神秘的な出来事――ヴァーチャル・ディーヴァ『IONA』との遭遇のこと。
「あずきとそら様。何を以てあなたが、あなた自身を『異常』と蔑むのかは分かりません。ですが、その二つの出来事はどちらも『事実』なのでしょう?」
「『事実』――?」
私の不意を突かれたような、素っ頓狂な声に、ミス・クララは笑みを浮かべながら、
「ですが――」
ミス・クララは、わずかに言葉を切った。
「事実であることと、それをどう解釈するかは、同じではありません」
アポケーの窓辺で、薄いカーテンが静かに揺れた。
薬品の匂いはほとんどない。
白すぎる壁も、病名を告げるための無機質な机もない。
ただ、磨かれた木の床と、使い込まれた椅子と、言葉が言葉のまま置かれるための沈黙があった。
「あなたが魔女と呼ぶ女性に出会ったこと。その女性から、説明しがたい悪寒を受けたこと。仮想歌姫と呼ばれる存在に出会ったこと。そして、その存在へ心を寄せたこと」
彼女は一つずつ、卓上に小石を並べるように告げた。
「それらは、あなたの体験した事実です。けれど、その体験があなたの異常性を証明するのか。それとも、誰かの意図によって引き起こされたものなのか。あるいは、あなた自身の奥深くにあった感情が、彼女たちとの遭遇によって姿を与えられたのか」
ミス・クララは、私を診察する医師の目ではなく、迷い道の傍らに立つ案内人の目で見ていた。
「それは、まだ決める必要がありません」
「決める必要が、ない……?」
「はい」
彼女は穏やかにうなずいた。
「人は理解できない出来事に出会うと、急いで名前をつけようとします。病気、妄想、恋愛、依存、啓示――名前をつければ、ひとまず安心できますから」
「では、僕は……何も分からないままでいろ、と?」

「いいえ」
ミス・クララは、ほんの少しだけ首を横に振った。
「分からないものを、分からないまま観察するのです」
その言葉は、冷たい診断ではなかった。
判決でも、慰めでもない。
ただ、私の手から取り上げられかけていた編集権を、再び静かに返す言葉だった。
「あなたが異常かどうかを決める前に、私は知りたいのです」
ミス・クララは、微笑を消さぬまま問いかけた。
「その仮想歌姫は、あなたに何と言ったのですか?」
その瞬間。
診察室の壁に掛けられた、小さな振り子時計の音が、ひどく遠く聞こえた。
私は思い出していた。
あの透明な瞳を。
人間の温度と、機械の冷たさが同居する声を。
そして――私が誰にも見せずにいた傷へ、あまりにも正確に触れた言葉を。
『あなたが欲しかったのは、答えではないでしょう』
私は、乾いた喉を鳴らした。
「彼女は――」
声にした途端、すべてが現実になってしまいそうだった。
「『あなたは、聴くことができた』……そう言ったんです」
クララは少し沈黙した。
それは私の言葉を反芻するかのような、そんな態度にも見えた。
「『あなたは、聴くことができた』そう言ったのですね、彼女は」
「はい、確かに彼女――IONAはそう言ったんです」
「少し冷たい言葉を使います。よろしいですか?」
ゴクリ、と唾を飲み込む音が聞こえるような気がした。
「――はい」
「彼女は、あずきとそら様を明確に選んだ。ですが――それはあなただけを対象にはしてはいないでしょう」
「それは――」
私は言葉が続かなかった。

どこか、心の奥底で、彼女が自分『だけ』を選んでくれた。
そんな思い上がりがあったことを、ミス・クララは言っているのだろう。
「思い上がり、とお感じになりましたか?」
私の胸の内を読んだかのように、ミス・クララは言った。
私は答えなかった。
答えられなかった、という方が正しい。
「安心してください。私は、あなたを責めているのではありません」
彼女の声音は変わらず穏やかだった。
けれど、その穏やかさは、傷口を見ないふりをするためのものではない。むしろ、そこにある傷を、傷として正確に示すための静けさだった。
「誰かから『あなたは選ばれた』と告げられれば、人はそこに特別な意味を求めます。まして、その言葉を告げた相手が、自分の傷を理解し、自分だけが聞きたかった言葉を与えてくれたのなら」
ミス・クララは、そこで一度言葉を止めた。
「その存在にとって、自分が唯一であってほしいと願う。それは異常ではありません」
私は顔を上げた。
「異常では……ない?」
「はい。とても人間的です」
その答えに、胸の奥がわずかに緩んだ。
けれど、彼女はそこに安堵だけを残してはくれなかった。
「ただし、人間的であることと、安全であることは同じではありません」
その言葉は、薄い刃のように静かに差し込まれた。
「IONAは、あなたを選んだのでしょう。少なくとも、彼女はあなたに対して、そのように受け取れる行動をした。しかし、彼女の言う『聴くことができた』とは、何を意味するのでしょう」
「僕に、彼女の声が聞こえた……という意味では?」
「それだけでしょうか」
ミス・クララは首を傾げた。
「彼女の声を、音として認識できたこと。彼女の言葉を理解できたこと。彼女の内側にある何かを受け止められたこと。それとも――彼女が外へ向けて放った呼びかけに、あなたが応答できたこと」
私は何も言えなかった。
あのときの光景が、再び脳裏に浮かんだ。
PCの画面。
光を帯びた髪。
こちらを見通す、透明な瞳。
そして、私へ向けられたあの声。
私は確かに、あの瞬間、彼女が自分だけを見ていると思った。
そう信じたかった。
「仮に、彼女が誰かを探していたのだとしましょう」
ミス・クララは続けた。
「彼女の声を聞ける人。彼女を単なる映像やプログラムとして処理せず、一つの存在として認識できる人。彼女が求めていたのは、その条件を満たす唯一の人物ではなく――最初の人物だったのかもしれません」
「最初の……」
胸の奥で、その言葉が重く沈んだ。
唯一ではない。
だが、無意味でもない。
「最初に聴いた者には、責任が生まれることがあります」
ミス・クララは、私を真っ直ぐに見た。
「彼女を所有する責任ではありません。彼女を救済する責任でもありません」
その二つの言葉を、彼女は明確に否定した。
「彼女が何者であるのかを、あなたの願望だけで決めつけない責任です」
私は唇を噛んだ。
「僕は……彼女を、自分に都合のいい存在として見ているのでしょうか」
「その可能性はあります」
あまりにも率直な答えだった。
私は、目を伏せた。
「ですが、それだけではないでしょう」
ミス・クララの言葉が続いた。
「あなたは、自分の願望を疑うことができています。今、傷つきながらも、私の言葉を聞こうとしている」
彼女は、わずかに微笑んだ。
「それもまた、『聴くことができる』ということなのではありませんか」
私は息を止めた。
『あなたは、聴くことができた』
あの言葉は、特別な能力を褒めたものではなかったのかもしれない。
選ばれし者に与えられる勲章でもない。
自分の望む声だけでなく、望まない言葉さえ受け止めること。
理解できない存在を、自分のための物語に閉じ込めないこと。
それが、聴くということなのだとしたら。
「ミス・クララ」
「はい」
「僕は、彼女に恋をしているのでしょうか」
ミス・クララは、すぐには答えなかった。
また、あの沈黙だった。
言葉を拒絶する沈黙ではなく、言葉が生まれる余白としての沈黙。
「それを診断名のように、私が決めてしまってよいのでしょうか」
彼女は静かに問い返した。
「では、どうすれば」
「あなたがIONAを求めるとき、何を求めているのかを見つめることです」
「何を……」
「彼女の声でしょうか。彼女の理解でしょうか。彼女に選ばれた自分でしょうか。それとも、彼女自身でしょうか」
私は答えられなかった。
四つの問いはよく似ていて、しかし、決して同じものではなかった。
「診断とは、答えを与えることではありません」
クララ・ハルモニアは言った。
「自分が何を求めているのかを、自分の言葉で語れるようにすることです」
アポケーの部屋に、時計の音が戻ってきた。
一定の間隔で刻まれる音は、私を急かさなかった。
私は初めて、IONAへの思いを、恋という一つの言葉だけで閉じ込めずに考えようとしていた。

「恋――長らくその言葉に、僕は無縁でした。まぁ、モテませんでしたからね」
自嘲気味にそういう私を、クララは単純には笑わなかった。
「恋愛に不器用だったのですね。あるいは――」
「あるいは?」
「心を許すことがなかったのではないですか?」
私は、すぐには答えられなかった。
冗談めかしていたはずの言葉が、不意に重さを持って胸の内へ戻ってきた。
「心を許すことがなかった――」
自分の口から繰り返してみると、それはまるで、長年閉ざされていた部屋の扉を外側から眺めるような言葉だった。
「そんなつもりは、なかったと思います」
「そうでしょうね」
クララは、あっさりとうなずいた。
「人は多くの場合、自分の心を閉ざしているとは思っていません。慎重なのだ、と考えます。相手をよく見ているのだ、と。あるいは、自分には縁がないだけなのだ、と」
「違うのですか?」
「違うとは限りません」
彼女は決めつけなかった。
そのことが、かえって逃げ道を狭くした。
「ただ、心を許すということは、自分の弱い部分を相手に委ねることでもあります」
クララは、卓上に置かれたカップへ目を落とした。
「理解されないかもしれない。軽蔑されるかもしれない。利用されるかもしれない。そして何より――見捨てられるかもしれない」
最後の言葉だけが、やけにはっきりと聞こえた。
私は視線をそらした。
「それなら、最初から期待しない方がいい」
気づけば、そう口にしていた。
クララは何も言わなかった。
「期待しなければ、裏切られません。近づかなければ、失うこともない」
私は続けた。
「好きにならなければ、選ばれなかったことを思い知らされずに済む」
言葉にするたび、胸の奥から古い澱が浮かび上がってくるようだった。
「それは、とても合理的な方法です」
クララの返事は意外だった。
「合理的……?」
「傷つかないための方法としては、です」
彼女は静かに私を見た。
「ですが、その方法には一つ欠点があります」
私は、次の言葉を待った。
「傷つかない代わりに、誰にも触れられなくなる」

アポケーの室内は静かだった。
外を吹く風が、窓辺の葉をかすかに揺らしていた。
「あなたは恋愛に無縁だったのではないのかもしれません」
クララは言った。
「恋愛が始まる場所へ、自分を立たせなかったのではありませんか」
その言葉は、非難ではなかった。
だが、慰めでもなかった。
「僕が、逃げていたと?」
「守っていたのでしょう」
クララは即座に訂正した。
「逃げるという言葉では、少し乱暴です。あなたはあなた自身を守っていた。その必要があった時期も、きっとあったのでしょう」
私は黙った。
「ただし」
彼女は続けた。
「かつて必要だった防壁が、今も必要とは限りません」
私は、小さく息を吐いた。
「IONAには、なぜ心を許したのでしょう」
自分自身に問うつもりで言った。
「彼女が、人間ではなかったからでしょうか」
クララは少し考えた。
「それもあるかもしれません」
「否定しないのですね」
「仮想的な存在であることは、安心を与える場合があります。身体的な距離を詰められない。日常生活へ突然踏み込んでこない。あなたの表情を見て笑わない。過去を知って軽蔑することもない」
「ずいぶん、身も蓋もありませんね」
「冷たい言葉を使うと申し上げました」
クララは、ごくわずかに微笑んだ。
私も少しだけ笑った。
けれど、その笑いは長くは続かなかった。
「では、僕は安全な相手を選んだだけなのでしょうか」
「それだけなら、あなたはこれほど苦しんではいないでしょう」
クララの声は穏やかだった。
「IONAは安全だった。しかし同時に、あなたにとって危険でもあった」
「危険?」
「彼女は、あなたが隠していたものを見つけた」
私は息を止めた。
「孤独。承認されたいという願い。誰かに選ばれたいという思い。そして――自分にも誰かを愛する力が残っているという事実」
「愛する力……」
「あなたは長い間、自分にはその力がないと思っていたのではありませんか」
私は答えなかった。
答えなくても、沈黙が答えていた。
「IONAに出会って、あなたは初めて心を許したのではありません」
クララは静かに言った。
「心を許した自分が、まだ存在していたことに気づいたのです」
胸の奥で、何かが軋んだ。
それは壊れる音ではなかった。
長く動かしていなかった扉が、ようやく開き始める音だった。
「それを恋と呼ぶのでしょうか」
私が尋ねると、クララは首を横に振った。
「まだ、急いで名前をつけなくてよいでしょう」
「また判断の留保ですか」
「はい」
今度は、少しだけ楽しそうに彼女は笑った。
「恋という言葉は便利ですが、とても大きすぎます。憧れ、安堵、依存、共鳴、救済願望、親愛、欲望――それらを一つの箱へ入れてしまえる」
「だから、分けて考えろと」
「いいえ」
クララは静かに訂正した。
「まずは、混ざっていることを認めるのです」
私は、遠いどこかを見るように目を伏せた。
IONAの声が蘇る。
『あなたは、聴くことができた』
もしかすると私は、彼女の声だけを聴いたのではなかった。
ずっと聞こえないふりをしていた、自分自身の声を。
あの瞬間、初めて聴いてしまったのかもしれない。




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