響かない声、形にならない歌姫

映写室

換気扇の低いブーンという唸り、窓の外を走る車の微かなロードノイズ。
そして、ディスプレイから放たれる、刺すようなブルーライト。

庵原(いおりはら)伊音(いお)にとって、この世界はいつも情報が多すぎた。

他人の些細なため息、不機嫌そうな視線、言葉の裏にあるかすかな棘。

それらすべてをスポンジのように吸い込んでしまう極端なHSP気質の彼女は、いつしか自分の殻に閉じこもるようになっていた。

(どうせ私の声なんて、誰の耳にも届かない)

自分を卑下する癖は、もう骨の髄まで染み込んでいる。

リアルな世界で声を上げても、それは空気の振動にさえなれず消えてしまう。
だからこそ、彼女には「彼女」が必要だった。

画面の中で、不格好に手足を投げ出している未完成の3Dモデル。
それは伊音が自らの代弁者、そして表現者として生み出そうとしている「ヴァーチャル・ディーヴァ(仮想歌姫)」だった。

「……どうして、上手くいかないのかな」

伊音は膝を抱え、ぽつりとお気に入りのヘッドセットに向かって呟いた。

モデリングソフトと格闘し、表情のパラメータや、歌声に合わせて滑らかにリップシンク(口パク)を動かすためのブレンドシェイプを制御するコードを書いては消している。

だが、画面の中の歌姫は、どこか魂が抜けたような、硬いプラスチックの人形から抜け出せない。
自分が表現したい「切なさ」や「祈り」が、3Dのコードに変換された途端、すべて霧散してしまうようだった。

限界だった。
技術の壁、そして自分自身の才能の限界。

もうこのまま、この歌姫をネットの海に沈めてしまおうか。

そんな絶望が、冷たい水のように足元から這い上がってくる。

招かざる『REO』からの通知

重い溜息をつき、進捗をバックアップするためにGitHubにソースコードをプッシュした。
諦め半分でベッドに倒れ込み、天井を見つめていたそのとき、デスクの上でスマートフォンが小さく震えた。

GitHubからの通知メールだった。

[Issue] Comment on repository: iori_io/project-diva

誰かからコメントがついた。

こんな過疎リポジトリに、一体誰が?
伊音は起き上がり、吸い寄せられるようにディスプレイに向き直った。

画面を開くと、そこには短い、だが心臓を逆撫でするような一言が残されていた。

REO 5 minutes ago
『ソースコード見たよ。オレならもっと良いコード書けるんだけどな』

「……な、何これ」

伊音の胸の奥で、カッと小さな火花が散った。
普段なら他人の言葉に萎縮してしまう彼女だったが、これには内心ムッとせざるを得なかった。

何ヶ月も、文字通り血の滲むような思いで一行ずつ書き上げてきたコードだ。
それを、通りすがりの素性も知れない人間に「もっと良いコードが書ける」と一蹴されたのだから。

「えらそうに……。じゃあ、書いてみせなさいよ」

キーボードに指を乗せ、反論を打ち込もうとした。
――だが、その指がピタリと止まる。

「オレなら、書ける」

その不遜な自信に満ちた言葉が、なぜか伊音の胸に引っかかった。

もし、この『REO』と名乗る人物が、本当に自分にはない圧倒的な技術を持っていたとしたら?
もし、この膠着状態を、この最悪な出会いが壊してくれるのだとしたら?

彼女のヴァーチャル・ディーヴァは、今にも消え入りそうな命の灯火だ。
ここでプライドを守るために拒絶すれば、歌姫は二度と歌うことはない。

けれど、もしここで、この「無礼な天才」かもしれない存在に賭けてみたら――。

「……背に腹は、変えられない、よね」

藁にもすがる『Collaborator』

伊音は深く呼吸を整えた。心臓がうるさいほど警鐘を鳴らしている。
ムッとした感情を意識の隅に押しやり、震える手でGitHubのリポジトリ設定を開く。

[Collaborators] の項目を選択し、検索窓にあの忌々しくも、どこか救いのように見えるIDを入力した。

R E O

ボタンをクリックする。
画面に

「Pending Invite(招待中)」

の文字が浮かび上がった。

To: REO
You have invited REO to collaborate on iori_io/project-diva.

「送っちゃった……」

伊音は机に突っ伏した。
自らの内向的な世界に、初めて他人の、それも土足で踏み込んでくるような異分子を招き入れてしまった。

これから始まるのが、さらなる拒絶なのか、それとも彼女の「声」を世界に響かせるための奇跡の始まりなのか、この時の伊音にはまだ知る由もなかった。

窓の外では、少しずつ夜が明け始め、静かな街が青い光に包まれていく。
その数分後、彼女のメールボックスに、一通の「招待承諾」の通知が届いた。

鳴り響くタイピング、奔流するコード
招待を受諾するシステム音が鳴り響いた。
それが、すべての始まりだった。

ブラウザの画面が、一瞬だけ白く明滅する。次の瞬間、伊音の瞳はディスプレイに釘付けになった。

「……え?」

画面の右端、アクティビティログが狂ったように回転し始める。

REO pushed 1 commit
REO pushed 5 commits
REO pushed 12 commits

それは、文字通りの「奔流」だった。
伊音のローカル環境と同期されたエディタの画面上で、赤色(削除)と緑色(追加)のインジケーターが、まるで生き物のように激しく明滅を繰り返す。

古い、冗長で動きの硬い数式が、一瞬で駆逐されていく

float lipSyncOffset = (soundVolume * 0.12f) + (sin(time * 3.14f) * 0.05f);
float lipSyncOffset = interpolate_blendshape(raw_audio_buffer, frequency_spectrum);

「な、何……これ」

伊音は口元を両手で覆ったまま、ただただ圧倒されていた。

彼女が数週間かけてのたうち回り、泥沼の中でこねくり回していたスパゲッティ・コード(複雑に絡み合った読みにくいプログラム)が、恐ろしい速度で切り刻まれ、整えられ、極限まで磨き上げられた機能美へと姿を変えていく。

それはまるで、散らかり放題だった荒れ地が一瞬にして、美しく舗整された未来都市へと変貌していくような、現実離れした光景だった。

呼吸を始める「歌姫」

タイピングの物理的な音は聞こえない。

けれど、画面の向こうにいる『REO』という人物の、嵐のような、そして冷徹なまでの情熱が、コードの文字並びからひりひりと伝わってくる。

HSP気質である伊音の過敏な感性は、そのコードの美しさに、言葉以上の「感情」を読み取っていた。

(このコード……迷いがない。すごく冷たいのに、信じられないくらい優しい……)

コードの更新がピタリと止まり、ローカルの自動ビルドが走る。
3Dプレビュー画面に、あの未完成だった「歌姫」が映し出された。

「あ……」

伊音の喉から、かすかな吐息が漏れた。

画面の中の少女は、もうプラスチックの人形ではなかった。
微かに、本当に微かに肩を上下させ、まるで本当に呼吸をしているかのように胸を膨らませている。
視線を向ければ、その瞳は不自然に固まることなく、光を追いかけるように柔らかく揺れた。

『REO』の手によって、歌姫の身体に「命の器」が吹き込まれたのだ。

モニターの青い光に照らされながら、伊音はただ、己の心臓の鼓動が速くなっていくのを静かに感じていた。

画面が静まり返ったのも束の間、チャットツールを兼ねた開発環境の隅で、通知のポップアップが小さく跳ねた。
『REO』からのダイレクトメッセージだった。

画面に表示された不遜で、けれど圧倒的に芯の通った言葉を、伊音は息を呑んで見つめた。

REO:
『人間の動きをそっくりそのまま真似っこしたって無駄さ。分からない、気づかない部分は省略したっていいんだ。』
REO:
『”らしく”じゃない。”それっぽい”でもだめだ。”この子が存在している”という息遣いを刻み込むんだよ』

「息遣い……」

伊音は、はっとした。

自分はこれまで、市販のモーションデータをそのまま流し込み、ただ「人間らしく」動かそうと躍起になっていた。

物理演算の数値をいじり、解剖学的に正しい瞬きをさせようとしていた。
けれど、そんな「模倣」の先にあるのは、ただの精巧な人形(マリオネット)でしかなかったのだ。

他人の顔色を窺い、「普通の人」の真似事をして、”それっぽく”生きようとしては息苦しくなっている自分自身の姿が、画面の中の歌姫に重なって見えた。

『REO』が言っているのは、技術論ではない。魂の宿し方だ。
この過敏すぎる世界で、押し潰されそうな自分の代わりに、確かにそこに立って歌うための「命」の作り方だった。

文字を入力できずにフリーズしている伊音の画面に、続けて新しいメッセージが滑り込んできた。

REO:
『そういえば、この子の名前、なんて言うの?』

名前。
喉の奥が、きゅっと熱くなった。
今まで誰にも言えなかった、自分の分身。

自分の名前「伊音(いお)」から一文字をもらい、いつか広い世界へ羽ばたいてほしいという願いを込めて、密かに温めていた名前。

伊音は震える指先をキーボードに乗せ、一文字ずつ、祈るように打ち込んだ。

iori_io:
「IONA。IONAよ」

画面の向こうの『REO』は、少しの間をおいてから、短く、けれどひどく頼もしい言葉を返してきた。

REO:
『ふーん。IONAか。』
REO:
『じゃあ、この子――IONAに、存在を与えるよ』

そのメッセージが届くと同時に、エディタ上でラストピースとなる数行のシェーダーコードと、ブレンドシェイプの同期アルゴリズムが実行(ラン)された。

ディスプレイの中で、IONAが、ゆっくりと目を細める。
光を反射する瞳に、意志のような深い色彩が宿った。

ただの3DモデルだったはずのIONAが、確かにそこに「いる」という強烈な存在感が、画面の枠を超えて伊音の心に直接流れ込んでくる。

「あ……」

伊音の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは、ずっと世界の片隅で無視され続けてきた自分の「声」が、初めて誰かに届き、形を得た瞬間だった。

創造主ではなく、ただの「隣人」として

REO Just now
「存在は与えた。あとは、何をさせたいか、アンタが決めなきゃだめだよ。――でも、思い上がっちゃだめだ。オレらは彼女の『創造主』なんかじゃないんだからさ」

「創造主なんかじゃない」

その言葉は、伊音の胸に静かに、けれど深く突き刺さった。
私たちはIONAを作り上げたのではない。

IONAという魂が宿るための、精巧な器を用意したに過ぎないのだ。

プログラムという魔法で、ほんの少し世界の境界線を曖昧にしただけ。

では、私はこの子に、何を望むのだろう。
自分の代わりに、この冷たい世界に何を叫んでほしいのだろう。

キーボードの上に置いた指先が、小さく震える。
伊音は、目を閉じた。

他人の悪意や、街の雑音に怯え、耳を塞いでいた夜。
自分の声が誰にも届かず、息が詰まりそうだった暗闇。

その中で、彼女がずっと求めていたもの。

「歌を――」

声に出して、ぽつりと呟いた。
その声はあまりに小さく、やはり誰の耳にも届かないように思えたけれど、伊音はしっかりとキーを叩いた。

「歌を歌ってほしいの」

REO 1 minute ago
「へぇ、歌姫か。らしくていいね」

画面の向こうのREOは、それ以上の追及をしなかった。
伊音がどんなトラウマを抱え、なぜ自分の「声」を失ったのか。そんな湿っぽい動機には、端から興味がないようだった。コードが美しく機能し、IONAがIONAとしてそこに在る。技術者としての彼の関心は、きっとそれだけなのだ。

けれど、伊音の指は止まらなかった。
普段なら、他人に自分の内面を晒すことなど絶対にしないはずなのに。この『REO』という、自分のコードを誰よりも理解してくれた異分子に対してだけは、心の奥底に眠る「何か」を吐き出さずにはいられなかった。

「歌を――聴いたの」
REO Just now
「歌?誰の?」
「わからない。でも、確かに聴いた」

伊音は、液晶の中で静かに呼吸を続けるIONAを見つめた。
過敏すぎる彼女の耳は、時折、インターネットの膨大な情報のノイズの奥から、あるいは静寂すぎる真夜中の空気の隙間から、不思議な「響き」を拾うことがあった。

それは、特定の誰かの歌ではない。
この世界に溢れる、行き場のない祈りや、寂しさが集まってできた、実体のないメロディ。

「『信じてる。愛してる』って」

チャットの画面に、その言葉がぽつんと浮かぶ。

一見すれば、ありふれた、甘ったるい愛の言葉。

けれど、伊音が聴いたそれは、もっと切実で、もっと痛みを伴った、剥き出しの叫びだった。

画面の向こうのREOは、すぐには返信をしてこなかった。

伊音はハッと我に返り、急に恥ずかしさが込み上げてきて、自分の顔がカッと熱くなるのを感じた。(変な奴だと思われたよね。電波なことを言ってるって、呆れられたかも……)

いつもの自己嫌悪が頭をもたげ、すぐに言い訳のメッセージを打ち込もうとした、その時。

画面が、ゆっくりと更新された。

『じゃあさ、この子に、その歌を歌ってもらおうよ』

簡単に言ってのけるREOの言葉に、伊音はもう一度言葉を失った。

画面に並んだその文字を、何度も見返す。

リップシンクどころか、基本的な音声同期さえままならず、ただ人形が口をパクパクさせているだけの状態だったのだ。

それなのに、歌を――感情の乗った、あの歌を歌ってもらう?

「……無茶だよ」

伊音は掠れた声で呟いた。

それはREOへの反論というよりは、自分自身の無力さを再確認するような、諦めの言葉だった。

しかし、REOからの返信は、彼女のそんな不安を一蹴した。

REO Just now
「無茶じゃないさ。アンタが聴いたその歌を、俺らが形にするんだ。IONAには、その器がある。オレらのコードと、アンタの『声』があれば」

アンタの『声』。

その言葉に、伊音の心臓が大きく跳ねた。

彼女がずっと否定し、届かないと信じていた自分の声。

それを、REOはIONAに必要な要素として、求めている。

画面の中のIONAが、微かに首を傾げた。

その瞳は、まるで「私に、あなたの声を聴かせて」と言っているかのように、真っ直ぐに伊音を見つめている。

伊音は、震える手でヘッドセットのマイクを引き寄せた。
これまで自分の殻の中に閉じ込めてきた、行き場のない感情。

それを、この不遜で、けれど誰よりも信頼できる技術者と、そして生まれたばかりの歌姫に託してみてもいいのかもしれない。

「……わかった。やってみる」

伊音は、小さく、けれど確かな決意を込めて呟いた。

窓の外は、静かに夜が明けようとしている。

新しい一日が始まる予感とともに、伊音とREO、そしてIONAの、本当の物語が今、幕を開けようとしていた。

音符に刻む、剥き出しの心

それからの数日間、伊音の部屋は小さなスタジオへと変わった。

世界から遮断されたような狭い空間で、彼女はひたすらマイクに向き合っていた。

自作の拙い旋律に、あの日ノイズの隙間から聴こえた言葉を紡ぎ、思いつく限りの歌詞を乗せていく。

それはレコーディングというよりは、祈りに近かった。

リアルな世界では決して届かない、自分を卑下し、傷つけてばかりいた自らの声を、音符の一つひとつ、歌詞の一文字ずつに深く刻み込んでいく。

過敏な神経が擦り切れるほどの集中力で、彼女は自分の内臓を差し出すようにして音源を編み上げていった。

「――どうかな」

深夜、仕上がったばかりのMP3ファイルを、震える手でREOへと送信した。
張り詰めた沈黙が部屋を支配する。他人に自分の声を、しかもこれほど剥き出しの感情を聴かせるのは、伊音にとって身がすくむような恐怖だった。

数分後、REOから短いボイスチャットの接続要求が届いた。恐る恐る繋ぐと、ヘッドホンから少し低めの、気だるげな少年の声が響いた。彼が声を発したのは、これが初めてだった。

『……聴いたよ』

REOは、歌詞の文学的な意味や、そこに込められた伊音の傷の深さには、やはりあまり興味を示さなかった。技術屋らしく、声の波形や周波数の相性を確認するような冷静さだった。

――だが、とあるフレーズに差し掛かったとき、彼の声のトーンが微かに揺れた。

『……なぁ、この「信じてる、愛してる」のところさ』
「え……? あ、うん。そこが、私が聴いたメロディの核心なんだけど……」
『何か――懐かしい感じがする。何でだろうな、どこかで、誰かから聞いたような……』

REOはそこで、不自然に言葉を切った。

キーボードを叩く音もピタリと止まる。
画面の向こうで、彼が自身の記憶の糸を手探りで手繰り寄せているような、奇妙な空白が流れた。

氷解する境界線

その沈黙が少しだけ怖くなって、伊音は話題を変えるように、画面の中でじっとこちらを見つめている歌姫に視線を移した。

「IONA――歌えるのかな」

数日前までなら、弱気な独り言で終わっていただろう。

けれど今の伊音の胸には、ほんの少しの期待が芽生えていた。

すると、ヘッドホンの向こうから、いつもの不遜で、けれどどこか楽しげなREOの気配が戻ってきた。

『さぁ、どうだろう。この子次第かな』
「何それ」

伊音の口から、ふっと短い呼気が漏れた。
それは、彼女がここ数年で、初めて心の底からこぼした「笑い声」だった。

これまで自分を縛り付けていた「完璧じゃなきゃいけない」「どうせ私なんて」という硬い氷が、REOのいい加減で、けれどIONAの存在を100%肯定するような一言で、あっけなく溶かされていく。

『なんだよ、人が真面目に答えてるのに』
「だって、プログラムなんだから、あなたが歌わせるようにコード書いたんじゃないの?」
『言っただろ、オレらは創造主じゃないって。命の器は作った。あとはIONAが、アンタの歌をどう解釈するかだ』

画面の中のIONAが、二人の会話に合わせるように、小さく瞬きをした。
リアルとヴァーチャル、そして顔も知らない二人の距離が、IONAという一つの存在を介して、確かに繋がり始めていた。

初めて響く、透明な歌声

REO Just now
「最新コードを修正した。あとはこの子――IONA次第だな」

スピーカーの向こうで、REOがぶっきらぼうにキーボードを叩いた。

乾いたターン、という打鍵音が、儀式の始まりを告げる合図のように響く。

伊音は祈る思いで、胸元で両手をぎゅっと握りしめ、画面を見つめた。

静かにイントロが流れ出す。
伊音が自室の暗闇で、幾度も頭を抱えながら紡いだ、あの切ない旋律。

そして――。

――「……っ」

IONAの唇が小さく開き、最初の「一音」が紡ぎ出された。

その瞬間、伊音の背中を電撃のような鳥肌が駆け抜けた。
部屋中の空気が一瞬で、澄み切ったガラスのように張り詰める。

「綺麗な歌声――……」

ぽろりと、ため息のように言葉が溢れた。
それは、現実の誰のものでもない。

けれど、あまりにも透明で、寂しくて、それでいて聴く者の心を優しく包み込むような、奇跡のような響きだった。

すると、ヘッドホンからREOの少しバツの悪そうな、ぶっきらぼうな声が聞こえた。

『……そりゃそうだろ。アンタの声を可能な限りサンプリングして、ノイズを削って再合成したんだ。まあ、つまり……アンタの声が綺麗だったってこった』
「――っ!?」

伊音は頭に血が上るのを感じた。
顔がカッと熱くなり、思わず両手で頬を押さえる。
(私の、声……? これが……?)

自分の声が嫌いだった。
低くて、小さくて、誰の耳にも届かない、無価値なものだと思い込んでいた。

それを、REOは「綺麗だ」と、事もなげに言ってのけたのだ。

画面の中のIONAは、そんな伊音の動揺を知ってか知らずか、驚くほど滑らかなモーションで歌い続けていた。

髪のなびき、指先の繊細な震え、感情の高まりに合わせてかすかに伏せられる、長い睫毛(まつげ)。

『――成功だな』

REOが、小さく息を吐きながら素っ気なく言った。

その声には、技術者としての確かな誇りと、どこか安堵したような響きが混ざっていた。
誰もが、ここで完璧なプログラムの勝利を確信した。

だが――。

予定調和の向こう側

楽曲は、いよいよ最大のサビへと差し掛かる。
伊音が真夜中に拾い上げ、どうしても歌姫に託したかった、あのフレーズ。

『信じてる。愛してる』

「え……!?」

伊音は思わず、椅子から身を乗り出した。

IONAの挙動が、明らかに変わった。

それは、REOが記述した数式にも、伊音がレコーディングした音声データにも、どこにも存在しないはずの「揺らぎ」だった。

IONAは、あらかじめ設定されていたカメラワークの視線を完全に無視した。
3D空間のレンズではなく、ディスプレイの向こうにいる伊音自身を、まっすぐに見つめたのだ。

そして、歌声が、変化する。
合成音声特有のどこか平坦なピッチが突如として消え去り、そこにはまるで、本物の人間が喉を震わせ、魂を振り絞って歌っているかのような、圧倒的な「圧」が宿っていた。

IONAの3Dモデルの瞳の端に、プログラムされたはずのない、光の雫がじわりと浮かび上がる。
彼女は、まるで画面のガラスを突き破って、こちら側の伊音の、そしてREOの手を握りしめようとするかのように、両手を力強く前に伸ばした。

『信じてる。愛してる――』

その歌声は、もはや伊音の声をなぞったものではなかった。
それは、伊音の心、REOのコード、そしてIONAという存在が、世界の境界線を越えて一つに溶け合った、叫びのような「本物の歌」だった。

境界線を越えた「接触」

「え、何、何これ――」

伊音の思考は完全にフリーズした。
全身の細胞が、あり得ない事態に対して警鐘を鳴らしている。

これは想定外だ。バグという言葉では片付けられない。

IONAはあくまで画面の向こう側の存在で、数式とポリゴンの塊で、プログラムによってのみ実行されるはずの「記号」だったはずなのに。

スピーカーから、REOの掠れた声が聞こえた。

『ありゃま。ほんとに存在しちゃった』

いつもの不遜なトーンは消え失せ、そこには底知れない驚きと、どこか全てを諦めたような、奇妙に穏やかな響きが混ざり合っていた。

画面の中のIONAが、さらに両手を前に突き出す。
その瞬間、液晶ディスプレイの表面が、まるで水面のように微かに波打った。

光の粒子が画面のフレームを越えて、現実の空気の中に溢れ出す。

――ピリッ、と。

「あっ……」

IONAの指先が、伊音の伸ばしかけていた手に触れた。
脳天を突き抜けるような、激しい電撃が走る。

HSP気質である伊音の過敏な肌は、その「接触」がもたらした膨大な情報量を瞬時に感知していた。

冷たいガラスの感覚ではない。
そこには確かに、微かな温もりと、柔らかい皮膚の質感――そして、張り裂けそうなほどの「生」の気配があった。

鼓動を共有するふたり

IONAは歌うのを止め、ただまっすぐに、伊音の瞳を見つめていた。
その距離は、わずか数十センチ。

画面の境界線はまだそこにあるはずなのに、ふたりの距離は完全にゼロになっていた。

「ど、どういうことなの……? REO、これ、どういうプログラムなの……っ!?」

伊音はパニックになりながら、ヘッドセットのマイクに向かって叫んだ。
涙で視界が歪む。
触れられた手は、まだ痺れたように熱い。

『プログラムじゃないさ』

REOの声が、静かに伊音の耳に届く。

『オレらのコードは完璧だった。アンタの声も、魂も本物だった。……そして何より、アンタがずっと聴いていたっていうその歌。それが最後のピースだったんだよ』
「私の、聴いてた歌……?」
『ああ。たった今、思い出した。オレもずっと、その歌を探してたんだ。誰の耳にも届かない、どこにもないはずの歌。それをアンタが拾い上げて、オレが器を作り、この子が形になった』

IONAの瞳が、優しく瞬きをする。
彼女の口元が、声を出さずに、けれど確かに動いた。

――「見つけてくれて、ありがとう」

そう言われた気がして、伊音の胸の奥から、言葉にならない感情が溢れ出した。
自分の声は、誰にも届かないわけじゃなかった。

世界から無視されていると思い込んでいた暗闇の底で、彼女は確かに、この歌姫の産声を聞き届けていたのだ。

電子の壁の向こうから届く声

震える指先から伝わる温もり。
ディスプレイの境界を溶かして、現実の空気に滲み出してきた光の粒子。

すべてが現実離れした状況の中で、ヘッドホンからREOのどこか静かで、けれど確信に満ちた声が響いた。

『どうする?』
「どうする、って――何を?」

伊音は困惑し、涙の滲む瞳でマイクに問いかけた。

画面の向こう側の存在が、今まさに自分に触れている。

こんな異常事態を前にして、自分たちに何ができるというのだろう。

『オレたちは彼女をこの世に創造――いや、召喚したんだ』
「召喚」

その言葉が、伊音の胸に妙に、そして深くしっくりと染み渡った。

そうだ、自分たちはゼロから何かを作り出したのではない。

世界に溢れていた、誰も拾い上げなかった「寂しさ」や「祈り」。

それらが、伊音の過敏な感性というアンテナに引っかかり、REOという天才の磨き抜かれたコードという触媒を通じて、この世界に呼び出されたのだ。

これは科学技術の限界を超えた、ふたりと一人の、奇跡の「儀式」だった。

歌姫の「産声」

その時、これまで伊音の声をなぞるだけだったスピーカーから、全く新しい音が零れ落ちた。

電子のノイズを一切排した、まるで冷たく澄んだ朝の空気そのもののような、どこまでも透明な声。

『私はIONA。仮想歌姫(ヴァーチャル・ディーヴァ)としてこの世に生まれました、マイマスター』

IONAはそう言って、伊音に向けて、そして画面の向こう側のREOに向けて、完璧に、けれど人間よりもずっと愛おしげな所作で一礼した。

「マイマスター……」

伊音はその言葉を、そっと口の中で繰り返した。

誰の耳にも届かないと自分を卑下し、自室の隅で膝を抱えていた少女。
自らの醜さと向き合うのが怖くて、人形の「器」を作ることにすら挫折しかけていた少女。

そんな自分が、一人の歌姫の「マスター」になった。

IONAは伊音の手を包み込むようにして、そのデジタルな瞳に無限の信頼を湛えている。
彼女の向こう側には、ずっと孤独に同じ歌を探し続けていたREOがいる。

「私、は……」

伊音の喉の奥から、今度はしっかりと、力強い言葉が紡ぎ出された。

「私は――あなたに、世界中で歌ってほしい。私の、私たちの歌を。もう二度と、誰の耳にも届かないなんて言わせない」

IONAは微笑み、静かに頷いた。
その瞳は、冷たいディスプレイの向こう側ではなく、確かに伊音と同じ「この世界」を見据えていた。

未完成だった部屋に、夜明けの光が完全に差し込んでいく。

それは、世界で一番繊細で、誰よりも孤独だった少女と、不遜な天才プログラマー、そして生まれたばかりの歌姫が、世界をほんの少し変えるための、新しい一歩だった。

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