男性が子どもを産む未来から、触れてよい身体は誰が決めるのかへ――ハラスメントと「編集権」を考える

展望台

※本稿は、報道された個別事案の事実認定や、当事者の人格評価を目的とするものではありません。
公表された説明に相違があることを踏まえ、身体的境界、合意形成、組織の設計責任について考察するものです。

はじめに――これは誰かを裁く記事ではない

以前、私は少し突飛な思考実験を書きました。

きっかけは、私の手元にある、小学生時代の卒業文集に、とある優等生な女子生徒が残した一文でした。
小学生とは思えない、その冷静な文章に、今でも私の心に残る印象深いものとなっています。

「未来では、男性も子どもを産むようになるのではないか」

もちろん、単純な未来予測ではありません。

妊娠や出産という身体的負担を、一方の性だけが引き受ける現在の構造を反転させれば、性暴力や身体的な非対称性に対する想像力は変わるのではないか。

そんな問いから始まった文章でした。

しかし、今になって読み返すと、身体を入れ替えるだけでは足りないことに気づきます。

人間が背負っているものは、肉体だけではありません。

記憶がある。
恐怖がある。
社会的な立場がある。
言葉にできない境界線がある。

そして同じ接触であっても、それが意味するものは、接触する側とされる側で異なることがあります。

最近報じられた、橋本愛氏と佐藤二朗氏をめぐる一件は、その難しさを改めて浮き彫りにしました。

ただし、最初に明記しておきます。

私は、この件について、どちらか一方を悪人と認定するつもりはありません。

公表されている説明には食い違いがあります。佐藤氏側は、撮影中の接触時点では橋本氏側の事情を知らされていなかったと説明しています。一方、フジテレビ側は、接触そのものではなく、その後に事情を認識した上で発せられた言葉などが外部弁護士の調査で問題視されたと説明しています。

外部にいる私たちが、断片的な情報から全真相を決めつけることはできません。

だからこそ、私はこの一件を「誰が悪かったのか」ではなく、

ハラスメントとは、どの地点で生まれるのか

という問いとして考えたいのです。


ハラスメントは、悪意の別名なのか

私たちはハラスメントという言葉を聞くと、しばしば明確な加害者を想像します。

悪意を持ち、立場の弱い人間を傷つける人物。

もちろん、そのような事例はあります。

しかし、すべてのハラスメントが、露骨な悪意から始まるとは限りません。

冗談のつもりだった。
親しみを示したつもりだった。
演技上、自然な動きだと思った。
指導や助言のつもりだった。

行為者の内側では、そう理解されているかもしれない。

それでも受け手にとっては、身体や尊厳、仕事を続ける自由を脅かす行為になり得ます。

ここで厄介なのは、二つの事実が同時に成立することです。

行為者に明確な悪意がなかった。

そして、

受け手は実際に傷つき、安全を失った。

どちらかを認めると、もう一方が消えるわけではありません。

悪意がなければ、影響もなかったことになるわけではない。

傷ついた人がいるからといって、相手の全人格が悪であると確定するわけでもない。

ハラスメントを「悪人の証明」としてだけ扱うと、私たちはこの複雑さを見失います。


意図と影響の間にある亀裂

ハラスメントを考える際には、少なくとも三つを分ける必要があります。

何を意図したのか。
実際に何が起きたのか。
相手にどのような影響が生じたのか。

この三つは、必ずしも一致しません。

親しみの意図が、侵入という結果を生むことがある。

配慮のための沈黙が、必要な情報を共有しないという結果を生むこともある。

被害を防ぐための調査が、別の当事者へ説明も反論の機会も十分に与えないまま進めば、それ自体が新しい傷を生む可能性もあります。

つまり問題は、一つの行為だけではありません。

情報の伝達。
合意の確認。
立場の違い。
問題が起きた後の対話。
組織による調査と公表。

それらが連鎖して、関係の破綻を作ります。

私は、ハラスメントを次のように捉えます。

ハラスメントとは、誰かの言動が、別の誰かの身体・尊厳・選択権を侵食し、その侵食を修正する仕組みが機能しなかった状態である。

悪意の有無だけでは測れません。

個人の性格だけでも説明できません。

関係と環境の問題なのです。


「気をつける」だけでは守れない

このような問題が起きた時、組織はよく言います。

「相手に配慮しましょう」
「コミュニケーションを密にしましょう」
「再発防止を徹底します」

しかし、善意や注意力だけに任せた安全設計は脆弱です。

撮影現場で身体的な接触が必要になるなら、

  • どのような接触が予定されているか
  • どこまで事前に合意しているか
  • アドリブで変更してよい範囲はどこか
  • 誰が制約を共有するのか
  • 当事者が拒否や変更を申し出られるか
  • 問題発生後、誰が仲介するのか

を、あらかじめ仕組みにしておく必要があります。

これは「繊細な人に特別扱いをする」という話ではありません。

自動車にブレーキを付けることを、運転が下手な人への特別扱いとは呼びません。

危険が予想できるなら、個人の察しのよさではなく、構造によって防ぐ。

道徳を説くより、事故の起きにくい道路を設計する。

元の記事で私が考えていた「ハードウェアの改修」とは、本来こういうことだったのでしょう。


身体にも編集権がある

私は「自由とは、編集権である」と考えています。

自由とは、好き勝手に振る舞うことではありません。

自分に関わる条件を、自分で選び、修正し、拒み、選び直せることです。

この考えを身体へ当てはめるなら、

  • 誰に触れられるか
  • どのように触れられるか
  • 何のためなら許容できるか
  • 一度同意したことを撤回できるか

を、自分で決められることになります。

演技の仕事であっても、その編集権が消えるわけではありません。

一方で、共演者にも、自分が何を求められ、どの制約の中で演じるのかを知る権利があります。

一方の安全を守るために、もう一方へ必要な情報を伏せたまま責任だけを負わせるなら、それもまた編集権の剥奪です。

だから必要なのは、

片方だけに配慮することではなく、双方が条件を確認し、交渉できる場を作ること

です。

「触れてよいか」を尋ねられる。
「今日は難しい」と答えられる。
「この動きなら可能です」と代替案を出せる。
一度決めた演出も、必要なら変更できる。

それは創作を不自由にする規制ではありません。

全員が安心して演技へ踏み込むための、共同編集です。


被害者と加害者という二つの箱

社会は、複雑な出来事を二つの箱へ分けたがります。

被害者か、加害者か。
善人か、悪人か。
擁護すべき人か、批判すべき人か。

箱に入れれば分かりやすい。

しかし、一度箱へ入れられた人間は、その後の言葉も行動も、すべて箱のラベルを通して読まれます。

被害を訴えた人には、

「大げさだ」
「仕事なのだから我慢しろ」

という言葉が向けられる。

問題を指摘された人には、

「そんな人物だと思わなかった」
「もう表に出るな」

という人格否定が向けられる。

結果として、当事者同士の問題に、無数の第三者が新しいハラスメントを上積みします。

私たちがすべきなのは、断片的な情報を手に、誰かを石打ちにすることではありません。

起きたことから、次に同じ破綻を起こさないための補助線を引くことです。


弱さを「資源」にする前に

以前の記事で私は、人間の弱さを共同体の資源として利用できないか、と考えました。

足りない部分を、別の誰かが補う。

高齢者の経験と、若者の体力。
外国から来た人の視点と、地域住民の知識。
傷ついた人が得た教訓と、これから同じ場所を通る人の備え。

しかし、現在の私は、そこへ一つの条件を付け加えます。

弱さを資源として差し出すかどうかを決める権利は、本人にある。

傷を語らない自由がある。
教訓へ変換しない自由もある。
誰かの役に立たず、ただ休む時間も必要です。

弱さを有効活用しようとする思想は、一歩間違えば、

「傷ついたのだから、そこから何かを生み出せ」
「支援されたのだから、社会へ返せ」

という新しい生産性の強制になります。

必要なのは、弱さの強制的な資源化ではありません。

本人が望む時に、望む範囲で、その経験を共有できる仕組みです。

それもまた、編集権です。


ハラスメントをなくすとは、悪人を追放することではない

もちろん、明確な加害行為には責任が伴います。

被害を受けた人の安全を守り、必要な救済を行うことも不可欠です。

しかし、ハラスメント対策を「悪人を見つけて排除する仕組み」だけにしてしまえば、組織は何も変わりません。

一人を処分して終わる。
新しい担当者を置く。
研修を一度行う。
そして、同じ構造の中で、次の事故が起きる。

本当に問われるべきなのは、

  • なぜ必要な情報が届かなかったのか
  • なぜ当事者同士で条件を確認できなかったのか
  • なぜ不安を伝える経路が機能しなかったのか
  • なぜ問題発生後の調整が対立へ変わったのか
  • なぜ調査や公表が新たな傷を生んだのか

ということです。

ハラスメントをなくすとは、善人だけの世界を作ることではありません。

人間が誤解し、失敗し、境界を読み違える存在であることを前提に、

破綻を早期に発見し、修正できる環境を作ること

です。


結び――触れてよい身体は、誰が決めるのか

「男性が子どもを産む未来」という思考実験は、身体的負担を入れ替えれば、他者の痛みを理解できるのではないか、という発想から始まりました。

しかし今は、こう考えます。

身体を入れ替えるだけでは、他者にはなれません。

その人が何を経験し、何を恐れ、どのような言葉を飲み込んできたか。

そこまで含めて初めて、その身体の境界が見えてきます。

そして、その境界を決めるのは、社会でも、会社でも、共演者でもありません。

まず本人です。

ただし、本人の境界を守るためには、それを他者へ正しく伝え、交渉し、必要に応じて変更できる仕組みが要ります。

自由とは、孤立して「嫌だ」と言い続けることではない。

互いの条件を持ち寄り、誰か一人の犠牲へ押し込まず、関係を編集し直せることです。

ハラスメントとは、悪意の名前ではありません。

編集権を失った関係の名前なのかもしれません。

だから私たちに必要なのは、断罪だけではない。

身体と仕事と関係性を、当事者たちが何度でも編集し直せる場所を作ること。

それが、誰かの身体を守りながら、別の誰かを新しい犠牲者にしないための、小さな出発点なのだと思います。


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