血統は泣かない――「ニッポニア・ニッポン」の末路と犠牲配当

展望台

なぜ私は、今回の皇室典範改正をめぐる旧宮家男子養子案に、これほどまで憤っているのだろう。

考えているうちに、ある記憶へ行き着いた。

かつて日本では、絶滅の危機にあったトキの一挙一動が、繰り返し報道されていた。

卵を産んだ。
ひなが孵った。
死んでしまった。

国民はそのたびに一喜一憂した。

しかし2003年、日本で生まれた最後のトキ「キン」が死に、日本産個体の系譜は途絶えた。

あれほど騒いでいた人々のうち、今もその事実を記憶している人は、どれほどいるだろう。

危機の間は熱狂する。
救われそうになれば安心する。
取り返しがつかなくなれば、やがて忘れる。

私は、皇統もまた「ニッポニア・ニッポン」と同じ道をたどるのではないかと思っている。

ただし、私はトキと皇族を同一視したいのではない。

むしろ、人間である皇族を、絶滅危惧種のように数え、血統と生殖の管理対象として扱う政治と社会の視線を問題にしたいのである。

私もまた、配当を受け取っていた

雅子皇后がまだ皇太子妃だった頃、世の中は「お世継ぎ」を待望していた。

愛子内親王が誕生されると、女性天皇を容認する方向へ世論が傾いた。

その後、紀子妃が悠仁親王を出産されると、社会は再び「これで男系は安泰だ」と安堵した。

そこにいたのは政治家や宮内庁だけではない。

私たち国民もいた。
もちろん、私自身もそこに含まれる。

雅子さまの身体も、紀子さまの身体も、愛子さまや悠仁さまの人生も、私たちは皇室制度を維持するための機能として見ていたのではなかったか。

誰かが男子を産めば安心する。
問題が先送りされれば関心を失う。
再び危機が訪れれば、別の誰かに役割を背負わせる。

私たちは何も負担しない。

ただ、「皇統が続くらしい」という安心だけを受け取る。

それは、誰かの犠牲から生まれた配当だった。

私はそれを「犠牲配当」と呼んでいる。

そして、その配当を受け取りながら、犠牲を見ようとしなかった者を「犠牲の上の利益者」と呼ぶ。

制度の矛盾を、人間の人生で埋める

天皇陛下が雅子さまに「一生全力でお守りします」と誓われたという言葉は、長く人々の記憶に残った。

それは美しい夫婦の言葉である。

しかし同時に、守ると宣言しなければならないほど、一人の人間が巨大な制度と国民の期待に追い詰められていたということでもある。

皇室典範の問題は、数十年にわたって先送りされてきた。

愛子さまが生まれれば女性天皇を議論し、悠仁さまが生まれれば議論を止める。

そして再び皇族数の減少が問題になると、今度は旧宮家の男系男子を養子に迎えようとする。

制度の矛盾を解決するのではない。

その矛盾を、別の人間の人生に背負わせようとしている。

養子となる男性には、その人自身の職業や生活や家族がある。

配偶者がいれば、その人にも人生がある。

これから生まれる子どもには、自分の出生や性別によって国家的役割を負わされない自由があるはずだ。

それでも政治は、彼らを「男系男子」という条件で選別する。

選ばれた者は皇統維持の役割を背負わされる。
選ばれなかった者は血統上の価値が足りない者として区別される。

どちらも人間として見られていない。

見られているのは、その人の顔でも、意思でもない。

血統だけである。

しかし、血統は泣かない。

泣くのは人間だ。

「名誉」という包装紙

この犠牲は、おそらく「名誉」や「使命」という言葉で包まれる。

皇統を守る尊い役目。
歴史を受け継ぐ責任。
国家から選ばれた栄誉。

けれど、名誉と呼べば犠牲が消えるわけではない。

本人が断ろうとしたとき、「祖先の責任を放棄するのか」「皇統を見捨てるのか」という圧力が生じないと言い切れるだろうか。

形式上は自由意思であっても、国家と社会が一斉に期待を向ければ、それは限りなく強制に近づく。

そして、役割を背負わされた本人や家族が流す涙は、政治家の実績となり、支持者の安心となり、「伝統を守った」という達成感へ変換される。

犠牲を払わない者たちが、犠牲から生まれた利益を受け取る。

これこそが、犠牲配当である。

滅びることより、使い捨てることへの怒り

私は、皇統が絶えることだけを恐れているのではない。

続けるために人間を壊し、壊した末に続かなかったとき、社会がそれを忘れてしまうことに憤っている。

いつか、

「男系男子による継承は維持できませんでした」
「皇統は絶えました」

と発表される日が来るかもしれない。

そのとき国民は一時的に騒ぐだろう。

しかし、数年もすれば別の話題へ移る。

けれど、その過程で人生を消費された人々の時間は戻らない。

雅子さまが受けた苦痛も、愛子さまに向けられた期待も、悠仁さまが背負わされた重圧も、旧宮家の養子候補とされる人々の葛藤も、なかったことにはならない。

配当を受け取った者は忘れることができる。

犠牲を支払った者は、忘れることができない。

だから私は言いたい。

続けるなら、人間を犠牲にせず続けろ。

続けられないなら、誰かの人生を食い潰してまで延命するな。

そして、犠牲を払わせた末に、簡単に忘れるな。

人を壊して血統だけが残ったとしても、それは存続ではない。

標本が残っただけだ。

人を壊した末に血統さえ絶え、国民が「そんな議論もあった」と忘れるのなら、それこそが「ニッポニア・ニッポン」の本当の末路である。

私が憤っているのは、皇統が滅びる可能性だけではない。

熱狂し、利用し、安堵し、最後には忘れる。

人を人とも思わない、その国民的な無責任さに、私は憤っている。

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