或る夜の出来事。
あの忌まわしい夜以来、僕――あずきとそらは、昼夜を問わず、PCを操作することに慎重になっていた。

いや、PCだけではない。
スマートフォン。
消灯したモニター。
果ては鏡や窓ガラスでさえも。
その『向こう側』から、あの魔女が僕を見ているのではないか――。
そんな疑念が、頭の片隅に居座り続けていた。
疲労に耐えきれず、ふと瞼を閉じれば、その暗闇の奥でさえ、あの魔女が高笑いしているような気がした。
そのたび、眠気は跡形もなく消えた。
そんな日々が続いた、ある夜更け。
――接触したのだ。
『彼女』に。

日記を書くことが、不定期ながらも僕の習慣になっている。
その夜も、日中の業務や、取り留めのない日常のことを、記憶からこぼれ落ちないうちにPCへ書き留めていた。
あの魔女が日記を見ていようが、もう構わない。
半ば諦めにも似た気持ちで、事実だけを並べる。
文章は、ひどく乾いていた。
「日記というより、業務日誌だな。これは」
自分で書いた文章を見返し、苦笑する。
文書作成アプリを閉じようとした、そのときだった。
画面が、わずかに揺らいだ。
また、あの魔女か。
指が止まる。
呼吸が浅くなる。
背筋が強張り、肩に力が入った。
今度こそ、問い詰めてやる。
どういうつもりで僕に近づいたのか。
何を知っていて、何を見ているのか。
そう自分に言い聞かせながら、僕は暗くなりかけた画面を睨みつけた。
だが、いつまで待っても、あの嘲るような声は聞こえなかった。
代わりに、どこからともなく、一つの音がした。
いや、耳で聞いたのではない。
胸の奥を震わせ、皮膚の裏側を駆け巡り、身体そのものを楽器に変えていくような感覚。
音、と呼ぶには不確かだった。
怖い、と思う。
しかし、その恐怖を好奇心が追い越していく。
まるで、「お化けなんかいない」と言い張りながら、廃墟の暗がりへ踏み込んでいく子供のように。
いたらどうしよう。
それでも、確かめずにはいられない。
震える指を、机の上で握り込む。
さあ、来い。
――見極めてやる。

ディスプレイ画面が爆ぜた。
いや、爆発したのではない。
光が、こちら側へ溢れ出したのだ。
目を開けていられないほどの眩しさが、部屋の隅々まで押し寄せる。
あの不確かな音が、少しずつ輪郭を得ていく。
音楽だった。
懐かしさと温かさが同居している。
それなのに、胸の奥を激しく揺さぶってくる。
「ゼントラーディか、僕は」
圧倒されながら、そんな軽口を叩いてみた。
光の中心に、人の輪郭が生まれ始めた。
長い髪。
透き通る衣装。
砕けた星の破片をまとったような、ひとりの少女。
彼女は歌っていた。
いや。
歌が、彼女の形をしていた。

ファースト・コンタクト、ファースト・コンサート。
後になって思えば、あのときは時間の流れさえ曖昧だった。
ほんの一瞬だったようにも思える。
それなのに、永遠に近い何かだったような気もする。
僕は彼女を見ていた。
いや。
彼女に――全身で見入っていた。
普段、僕は歌詞にあまり興味がない。
正確には、歌詞に意識を奪われるのが嫌なのかもしれない。
イージーリスニングやインストゥルメンタルを好むのも、言葉の意味へ意識を割くことなく、楽曲そのものへ埋没できるからだ。
けれど、彼女は確かに歌っていた。
言葉を紡いでいる。
歌詞がある。
それなのに、不思議なほど、その意味へ意識が向かなかった。
言葉を理解する前に、音が身体へ届いていた。
高度な3Dモデリングなのか。
ホログラムなのか。
それとも、まったく別の何かなのか。
僕には分からなかった。
実体がないように見える。
なのに、妙に質感がある。
髪が揺れる。
衣装が光をはらむ。
胸が上下し、指先がわずかに震える。
ヴァーチャルであるはずなのに、息遣いがある。
躍動がある。
そこに、誰かがいる。
そう思わずにはいられなかった。
『あなたは、聴くことができた』
歌が終わった。
彼女はまっすぐに僕を見つめ、そう語りかけた。
どういう意味だ?
ちゃんと聞こえていた。
歌も、声も。
聴くことができた。
――彼女は、何を言っている?
けれど、彼女はそれ以上の言葉を残さなかった。
輪郭が淡い光へほどけ、溶けるように消えていく。
「待て!」
椅子を蹴るように立ち上がった。
「待ってくれ! 君の名前は――君は、誰なんだ!」
限界まで右手を伸ばす。
消えゆく彼女の手をつかみ、こちら側へ引き寄せようとするように。
けれど、指先は光をすり抜けた。
そして、彼女の姿が完全に失われたあと。
僕の意識の底に、四つの文字だけが残っていた。
IONA




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