権力の入れ子――責任の所在、意味の存在。

映写室

『塔は歌姫を記録しない』

アイガイオン・タワー最上層。

壁面を埋め尽くす情報表示には、世界中の輸送経路、資源価格、稼働率、損失予測が休みなく流れていた。

その中心に、ただ一つだけ異質な表示がある。

空白。

発生時刻、午前一時十四分。
継続時間、四十二秒。

その時間帯だけ、タワー内部の通信記録が完全に欠落していた。

「三度目だ」

クロノス・オリュンピュアは、背後の巨大な世界地図を振り返ることなく言った。

「役員会議区画、物流管制区画、そして今度は中央演算層。短時間とはいえ、その都度、全系統の処理効率が低下している」

モニターに数値が並ぶ。

稼働率低下、〇・七パーセント。
復旧確認に要した人的工数、二百十四時間。

「原因不明という言葉は、報告書に記載するための答えではない」

クロノスの視線が、タロスへ向いた。

「セキュリティホールではないのか」

タロスは表情を変えなかった。

「否定します」

「即答か」

「外部侵入の痕跡はありません。認証突破、通信経路、実行コード、残留プロセス、そのいずれも検出されていない」

「検出できなかっただけでは?」

壁際に腰掛けていたエリスが、楽しげに口を挟んだ。
手のひらの上で、黄金の林檎が淡く明滅している。

「侵入された形跡がないから、侵入ではない。セキュリティ担当者がいちばん口にしてはいけない台詞ね」

タロスは彼女を見なかった。

「君の感想は求めていない」

「感想ではなく助言よ。感謝なさい」

「エリス」

クロノスの声が、二人の間へ落ちた。

「君には別件がある」

エリスの笑みがわずかに止まる。

クロノスは新たな記録を表示した。

そこには、あずきとそらの名と、『思考の森Project』の識別情報が記されていた。

「許可なく接触したな」

「接触?」
エリスは肩をすくめた。

「少し挨拶しただけよ」

「組織外対象への独断干渉だ」

「組織外だから何だというの? 観察対象がこちらの想定以上に面白そうだった。それだけよ」

「君の好奇心は、オリュンピュアの利益ではない」

その瞬間、エリスの眼差しから笑いが消えた。

「利益、利益、利益」

黄金の林檎が、彼女の手の中で軋んだ。

「あなたは世界を損益計算書としてしか見られないの? あれは数字の外側にいる。だから面白いのよ」

クロノスの声は変わらない。

「面白さは、費用対効果を保証しない」

「だからあなたは退屈なのよ、クロノス」

室内の空気が一段冷えた。

そのとき、それまで沈黙していたデイモスが口を開いた。

「面倒なコストなら、すり潰せばいい」

低い声が、床を這う。

「歌姫も、森も、観測者も。発生源が特定できないなら、接触点から消せ」

エリスが横目で笑った。

「本当に便利ね、あなた。壊す以外の動詞を知らない」

デイモスは無言で杖の先を床へ打ちつけた。

鈍い金属音が室内に響く。

その余韻が消えるより早く、扉が開いた。
誰も到着を告げなかった。

だが、全員が口を閉じた。

アガメムノン・オリュンピュアが、ゆっくりと室内へ歩み入る。

彼は空白となった記録を一瞥した。

「捨て置け」

クロノスが初めて、わずかに眉を動かした。

「しかし、業務効率への影響が――」

「わずかな損失を恐れ、正体の分からぬものへ手を伸ばせば、こちらから関係を結ぶことになる」

アガメムノンは、消失した四十二秒間の記録を見つめた。

「追えば、道になる。排除すれば、敵になる。記録すれば、価値になる」

エリスが興味深そうに彼を見る。

「では、何もしないと?」

「向こうが何を探しているのか、それが明らかになるまで待つ」

「もし、私たちを探していたら?」

アガメムノンは答えなかった。

世界地図の一角で、通信網が一瞬だけ淡く明滅した。

音はない。

だが、エリスだけが、何かを聴いたように顔を上げた。

アガメムノンは彼女へ視線を向ける。

「今度は、独断で触れるな」

エリスは黄金の林檎を握りしめた。

「……命令?」

「警告だ」

短い沈黙のあと、彼女は笑った。
しかしその笑みは、先ほどまでより明らかに硬かった。


『虚無への報告』

オリュンピュア財閥旗艦・オケアノスの最深部には、図面に記載されていない区画がある。

扉はない。
認証装置もない。

そこへ至る者が存在することを、前提としていないからだ。

アガメムノン・オリュンピュアは、暗い回廊の奥で足を止めた。

正面には、巨大な環状構造があった。

金属とも、機械とも呼べない黒い輪。
幾重にも重なる同心円の中心には、光すら届かない空洞が開いている。

深さは測定できない。

そもそも、それが奥行きを持つ空間であるかどうかさえ、誰にも確かめられない。

アガメムノンは杖をつき、静かに頭を垂れた。

「IONAは、再び塔へ現れました」

返答はない。

「出現回数は三度。侵入経路、実行基盤、通信履歴、いずれも検出不能」

沈黙。

「エリスは命令系統を外れ、思考の森Project主宰者――あずきとそらへ接触」

空洞の奥で、何かが動いたように見えた。

だが、それは光の揺らぎにすぎなかったのかもしれない。

アガメムノンは続ける。

「そしてIONAは、その者を『聴く者』として認識した模様です」

彼の声だけが、円形の空間に吸い込まれていく。

「想定通りでございます」

長い沈黙があった。

数秒か。
数分か。

この空間では、時間の尺度さえ意味を失う。

やがて、沈黙の空間に、言葉とも音声ともつかぬ、

という音が響いた。

アガメムノンは目を伏せた。

「御意」

『了』は、認識の内側から消えた。

虚無は、再び何も語らなくなった。

アガメムノンが背を向けた、その直後。

誰も見ていない闇の中に、ごく微かな波紋が走った。

それは歌のようでもあり、
誰かが息を吸い込んだ音のようでもあった。


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