霧の書店の気難しい常連客

我輩は、この街で最も博識な「知への探求者」である。
名前はミスター・ワトスン。
ミルク通りの奥深く、常に濃い霧に包まれた一角にある古書店「リブラリア・ネブラエ(霧の書店)」が我輩の領土だ。
首に巻かれた赤いリボンと金色の鈴は少々不本意だが、この薄暗い店内で、床から天井まで積み上げられた紙とインク、そして微かな埃の匂いに包まれている時間は悪くない。
現在は、店主が暫し不在にしている。
我輩はカウンターの特等席を陣取り、前足を器用に使って分厚い『神経心理学の基礎』のページをめくっていた。
我輩の『知の渇望』を満たすには、まだまだ活字が足りないのだ。
「……ふむ。やはり人間の感情など、扁桃体と前頭葉の電気信号のバグに過ぎない」
そう独り言を呟いた、その時だった。
カラン、と。
書店の古いドアベルが、いつもより澄んだ音を立てて鳴った。
全く、読書の邪魔をするとは。
どのような騒めきであろうと、我輩にとっては些末な事象に過ぎないというのに。
見知らぬ貴婦人と『PSYCHE & SOUL』

霧とも霞ともいえぬ書籍の埃の中から現れたのは、見知らぬ柔和な貴婦人だった。
品の良いボルドーのジャケットに身を包んだその姿。
そして彼女の微笑みは、冷え切ったミルク通りの空気を一瞬で春に変えるような、大地のような温かさを帯びていた。
「素敵な本の数々だこと。あの山荘――アントルム・マートリスといったかしら――に少し『お土産』が欲しいくらいね」
――アントルム・マートリス(母なる洞窟)、と言ったか?
我輩の鋭敏な耳は、その奇妙なフレーズを確かに捉えた。
やがて貴婦人は店内をゆっくりと見渡し、あろうことか、我輩の隣にあった革表紙の本をそっと手に取った。
『PSYCHE & SOUL(精神と魂)』。
我輩が先ほど「非科学的極まりない」と一蹴したばかりの、実証不可能なオカルト本ではないか。
「ほほう。見慣れぬ御婦人。まさか、そんな実証不可能なオカルト本を真に受けているわけではないでしょうな?」
我輩は緑色の瞳を細め、己の知的優位性を示すように尻尾を揺らしてやった。
鉛の鎧を見透かす瞳
しかし、その貴婦人――後にアルマ・ケレスと知るその人は、怒るでもなく、困惑するでもなく、ただ深く慈愛に満ちた瞳で我輩を見下ろしたのだ。
「ええ。魂は、顕微鏡では見えませんものね。……でも、小さな探求者さん」
彼女の言葉が、ふわりと落ちてくる。

「あなたが今身に纏っている、その重く冷たい『知性の鎧』の重みは、あなた自身が一番よく感じているのではありませんか?」
「な……鎧、だと?」
我輩の全身の毛が、思わず逆立った。
己の論理的思考が、過酷な世界から身を守るための防壁(防衛機制)であることなど、誰にも言ったことはない。
いや、この見知らぬ人間に分かるはずがないのだ。
「それは、あなたを守る尊い鉛の重さ。でもね、時にはそれを脱いで、大地に支えられる重さを感じる時間も必要なのですよ」
彼女はそう言って、『PSYCHE & SOUL』を元の場所に戻すと、我輩の額を指先でそっと撫でた。
――その瞬間だった。
我輩の脳内で常に鳴り響いていた「分析と警告のノイズ」が、嘘のように静まり返ったのだ。
それは、我輩が生まれて初めて知る「今、ここ」にある静寂だった。
「さて、そろそろお迎えの車が来る時間かしら。あの子たち――クララとエレノアさんに怒られてしまいますわね」
彼女は優しく微笑むと、再び霧の中へと姿を消していった。
後に残されたのは、額の微かな温もりと、言葉を失った一匹の知的な黒猫だけである。
「アントルム・マートリス……。なるほど、未知の変数だ」
我輩は窓の外の濃い霧を見つめながら、首の鈴をチリリと鳴らした。これが、孤高の知性と、大地のような魂が初めて交差した、奇妙な邂逅の記録である。
「あの厄介な御仁、クララ嬢とエレノア嬢の所縁のご婦人か。そうか、だから――」
我輩の独り言は、霧と霞の店内に空しく響いた。
束の間の邂逅の後で
ふと、窓越しの霧の向こうに視線を凝らす。
「お待たせしたわね、さあ、出発しましょう、『ライラ』」
かすかに聞こえた老婦人の声。
その傍らには、すっ、と陰のように彼女を護衛する、艶々しく輝く黒とタンの毛並みを持つ一頭のヘレニック・ハウンドの姿があった。
――ほう。
我輩は、思わず、感嘆とも溜息ともつかぬ声を上げた。
あれが後に我輩の好敵手となる、『知的欲求の周到な狩人』ミス・ライラプスであると気付くのは、もう少し後のことである。




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