SFと大河ドラマの融合、革命の『超電子バイオマン』
今回、私がおすすめする作品は、『超電子バイオマン』です。
1984年に放送されたスーパー戦隊シリーズ第8作目であり、現在まで続くスーパー戦隊の歴史の中でも「革命的」と呼ぶにふさわしい、エポックメイキングな作品です。
当時の中二病患者の私が、この作品の重厚な設定に痺れないわけがありませんでした。
「バイオ粒子」。
このSFマインド溢れる響きに、私たちは毎週テレビの前で釘付けになりました。
古い特撮老人会の皆さまならばご存知の通り、それまでの戦隊シリーズは「○○戦隊」という名称が定番でしたが、本作にはそれがありません。
そして何より、女性戦士が初期メンバーに2人いる(イエローとピンク)という、当時としては画期的な編成でした。
「え、イエローが女性!? しかも途中交代するの!?」
と、私の脳内には驚愕の嵐が吹き荒れましたが、本放送を正座しながら見守るうちに、そんな表面的な驚きは、本作の奥深いストーリーの前にすぐ吹っ飛びました。
バイオ星の悲劇と「宿命」の戦士たち
あえてストーリーを語るのは恐縮ではあるのですが、かいつまんで説明を致しますと、
物語は、500年前に「バイオ粒子」を巡る戦争で滅亡したバイオ星から、同じ悲劇を繰り返させまいと地球に送り込まれたバイオロボとサポートロボ・ピーボの存在から始まります。
彼らは、メカ人間による地球支配を企む「新帝国ギア」の出現を機に、かつてバイオ粒子を浴びた者の子孫である5人の若者を富士山麓に集め、彼らは「超電子バイオマン」として戦う宿命を背負うことになります。
ライジンオーが「教室そのものが基地」という日常の延長線上にあったのに対し、バイオマンは「500年前から続く宇宙規模の因縁と宿命」という、非常にスケールの大きなSFドラマとして描かれました。
彼らは単なる正義の味方ではなく、地球を守るために選ばれた「血脈(バイオ粒子)」の戦士なのです。
敵組織「新帝国ギア」の人間臭さと、狂気の天才ドクターマン
そして本作を語る上で絶対に外せないのが、敵である「新帝国ギア」の圧倒的な存在感です。
ギアを創設した総統ドクターマンは、なんと自らの体を改造した元・人間の天才科学者です。
幹部であるビッグスリー(メイスン、ファラ、モンスター)や、戦闘用メカ獣士ジューノイドたちを操り、容赦ない作戦を繰り広げます。
ファイバードのDr.ジャンゴが人間の「欲」を利用したように、ドクターマンもまた、人間社会の弱点や科学の負の側面を冷酷に突いてきます。
しかし、彼が単なる「悪の首領」で終わらないのは、彼自身がかつて人間であり、生き別れた息子(彼をモデルにしたメカ人間プリンスも登場します)への執着など、人間としての業や情を捨てきれていない部分が描かれるからです。
「機械による支配」を掲げながら、最も人間臭い葛藤を抱えているのがドクターマン自身であるという皮肉。
この重厚な敵側のドラマ展開が、バイオマンを単なる勧善懲悪のヒーローものから、大河ドラマのような深みへと昇華させています。
第3の勢力、孤独の狩人「バイオハンター シルバ」
さらに、番組後半の第37話から登場し、絶大な人気を誇ったのが「バイオハンター シルバ」です。
彼は、かつてバイオ星で反バイオ同盟によって作られた殺人ロボットであり、ギアでもバイオマンでもない第3の勢力として戦場に乱入してきます。
「バイオ粒子反応あり! 破壊!」
この名台詞とともに、愛銃バイバスターを乱射し、巨大ロボ・バルジオンを駆る彼の姿は、当時の子供たちに強烈な印象を与えました。
目的のためには手段を選ばない冷酷なハンターでありながら、どこか孤高の美学を感じさせるその佇まいは、メカデザイナーである出渕裕氏の素晴らしいデザインワークの賜物でもあります。
科学の光と影、そして人間の「強さ」
本作は、優れたSF性を持ちながらも、常に「科学の進歩と人間の尊厳」という普遍的なテーマを問いかけてきます。
バイオ星を滅ぼした科学の力(バイオ粒子)が、地球を守る力(バイオマン)にもなるという二面性。そして、科学の力で人間を捨てようとしたドクターマンと、人間の心(バイオ粒子)を信じて戦うバイオマンたちとの対比。
「自由には責任が伴い、不満の解消には代償がある」という教訓が他のロボットアニメにあったように、バイオマンは「過ぎた科学の力には破滅の危険が伴い、それを制御するのは人間の『心』である」ということを教えてくれました。
今にして思うこと。
それは、科学技術が当時とは比べ物にならないほど進歩した現代において、ドクターマンのような狂気や、シルバのような冷徹な論理が、現実の社会にも影を落としていないか? ということです。
圧倒的な科学の脅威を前にしても、自らの宿命を受け入れ、仲間との絆(バイオ粒子)を信じて戦い抜いた5人の姿を。
そんなハードでドラマチックな問いを、皆さんもぜひ本作に触れて共有してほしいと思います。
放送開始40周年を記念した廉価版DVDも発売されていますので、今こそ振り返る絶好のチャンスです。
必殺剣のインフレーションと、立ちはだかる「絶望の壁」
「絶対無敵」。
この言葉に示される圧倒的なカタルシスに私たちが胸を躍らせたように、当時の私たちが「バイオロボ」に感じていたカタルシス。
それは、必殺技「スーパーメーザー」の異端とも言える「多彩さ」にありました。
一般的な巨大ロボットの必殺技が「一つの決まった型」であるのに対し、初期のスーパーメーザーには「ダッシングビーム」「コメットカッター」「ストレートフラッシュ」など、敵の特性に合わせて使い分ける無数の剣技が存在しました。
「今日はどの技で決めるのか?」と、毎週テレビ画面に食いつく私がそこにはいました。
しかし、制作側が突き付けた「現実の恐怖」はここからです。
敵の総統ドクターマンは、幾度となく立ちはだかるこの必殺剣を、冷徹な科学の目で徹底的に分析します。
そして、スーパーメーザーの太刀筋を文字通り「白羽取り」して無力化する、あるいは剣そのものをへし折るという、圧倒的な装甲とパワーを持つ「ネオメカジャイガン」を投入してくるのです。
「え、必殺技が効かない!? 敗北しないの前提じゃないの?」
と、私の脳内に当然といえば当然すぎる疑問と恐怖が渦巻きますが、この番組はそんな絶望を置き去りにして進んでいきます。
奇跡の逆転劇「バイオ粒子斬り」に至る、命の共闘
無敵の剣が通じない。
この圧倒的な「科学の狂気」に対抗するため、彼らはどうしたか。
ここでサポートロボであるピーボが、自らの身を挺してバイオロボのエネルギー回路と一体化するという、身を削る共闘展開が描かれます。
ピーボの命を懸けた想いと、バイオマン5人の力が極限までシンクロし、奇跡の逆転技「スーパーメーザー・バイオ粒子斬り」が誕生した瞬間の、あの清々しいまでの高揚感。
それはまさに「夢や想いには責任・強さが伴う」という一貫した哲学の、最も美しい具現化でした。
敵組織のリストラ劇と、怪人たちの奇妙な「友情」
一方で、敵組織「新帝国ギア」の内部で巻き起こるドラマもまた、強烈な「人間臭さ」を放っていました。
度重なる敗北に対し、ドクターマンはなんと部下の戦闘用メカ獣士(ジューノイド)たちに対し、「能力の低い者は解雇(処刑)する」という、あまりにも生々しい「リストラ宣告」を下します。
この時、幹部の一人であるパワータイプの「モンスター」が、自分が可愛がっていたジューノイド・ジュウオウを守るために見せた、必死の庇い合いと涙。
ライジンオーの敵幹部タイダーが見せたのんきな人間臭さとはまた違う、完全な悪役(しかも機械)でありながらも「情」を捨てきれない彼らの姿。
その人間臭さが逆に「機械になりきれない悲哀」という逆説的な不可思議さを表現しており、当時の私たちの胸を強烈に打ちました。
地球破壊のカウントダウンと、父と子の邂逅
そして物語は、息を呑むラストバトルへと収束します。
反バイオ爆弾による「地球破壊カウントダウン」が迫る中、敵の本拠地ネオグラードで繰り広げられるのは、正義と悪の単純なぶつかり合いではありません。
それは、科学の頂点に立つために自らの肉体を捨てた総統ドクターマン(柴田博士)と、彼がかつて捨てた「実の息子」である秀一との、あまりにも悲しい邂逅でした。
地球の運命というマクロな危機と、親子の愛憎という極めてミクロでプライベートな悲劇が交差するこの最終決戦。
かつてライジンオーのガソリンガー回が、「嫌なものがない世界=楽園」ではなく、「嫌なものとも折り合いをつけ、責任を持って共存する世界」こそが現実であると子供たちに突きつけたように。
バイオマンの最終回が私たちに突きつけたのは、「究極の科学の力を手に入れて世界を思い通りにしようとも、自らの内にある人間の心(親子の情)までは決して消し去ることはできない」という、身近で、それでいてあまりにも重い哲学でした。
特撮ヒーローの枠を大きく踏み越え、人間の業と愛を描き切った本作の絶望と希望のコントラストを、ぜひ今こそ、深く味わっていただきたいと思います。

注)画像はイメージです。


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