ユートピア都市の陰影と、犯罪の『美学』と『俗』! 『未来警察ウラシマン』が突き付けた犯罪組織ネクライムの神髄

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今回、私がおすすめする作品は、1983年に放送されたタツノコプロ制作の『未来警察ウラシマン』です。

一見、1983年から2050年の近未来へタイムスリップした記憶喪失の少年「リュウ・ウラシマ」が、未来警察マグナポリスの刑事として戦うという、王道の retro-futurism (レトロ・フューチャー) なアクションコメディに見えますが、当時のオタクの嗅覚は、この作品の根底に流れる、もっと冷徹で、そしてあまりにも生々しい何物かを逃しませんでした。

「絶対無敵」や「太陽の勇者」といったカタルシスあふれる冠を持つロボットアニメや、宿命に抗う特撮ヒーローとは一線を画す、その冷徹な何物か。

それは、犯罪組織「ネクライム」です。

古いオタク老人会の皆さまならば、ネクライムといえば、その洗練された冷徹さと、まるで企業のような組織構造、そして内部で渦巻く「美学」と「俗物性」の深刻な対立に痺れないわけがないでしょう。

ユートピア社会の陰影と、警察の牧歌性

あえてストーリーを語るのは恐縮ではあるのですが、かいつまんで説明を致しますと、 物語は、2050年の完全なユートピア都市ネオ・トキオの影に潜む、冷徹な「犯罪シンジケート」ネクライムの出現から始まります。

異次元の侵略者や狂気の科学者ではなく、彼らは高度なユートピア社会が抱える「歪み」や「欲望」を、冷徹な経営の視点で切り取った、新たな「organised evil (組織化された悪)」として立ちはだかります。

ライジンオーが人間の抱く「テストの答案用紙」や「工事の騒音」といった何気ない不満に反応し、それを社会への脅威に変換したように。
バイオマンのドクターマンが科学の力を利用して、人間の「便利さへの過剰な追求」にしっぺ返しを食らわせたように。

ネクライムもまた、人々の欲望や便利さへの追求が、そのまま彼らの犯罪ビジネスの利益に変換される仕組みを構築していました。

そして、この洗練された冷徹な「犯罪の企業臭」と鮮やかな対比をなすのが、ウラシマンが属するマグナポリスの、どこか牧歌的なチームワークです。

リュウ、クロード、ソフィアという等身大の若者たちと、権藤警部という泥臭い大人が、ぶつかり合いながらも、家族のようなアットホームな結束で戦う。

この、圧倒的な組織というシステムに対抗する、「等身大の人間性(アットホーム)」という構造こそ、制作側が突き付けた、新たな脅威の形であり、作品全体に「圧倒的安心感」と温かみを生み出す慧眼がそこにありました。

ネクライム内部の亀裂:美学と俗、確執の構造

そして本作を語る上で絶対に外せないのが、ネクライム内部で渦巻く、深刻な「美学」と「俗物性」の対立です。

ファイバードの敵が人間の「欲」や「社会の負の側面」を利用してメカ獣を作り出し、愚かさを糾弾するだけで終わらない構造を描いたように。
ドクターマンが、自らの肉体を改造するほどの「科学の狂気」を目の当たりにしてもなお、人間に守るべき「愛」と「心」を信じる勇者の哲学を描いたように。

ネクライムもまた、その冷徹な組織の論理だけで動いているわけではありません。

組織の筆頭幹部ルードヴィヒ

彼は、組織の profit-driven (利益重視) の哲学に従いつつも、自らの犯罪を「芸術」の領域にまで昇華させようとする、洗練された「悪の美学」の体現者です。

彼の、貴族趣味的で冷徹な佇まいと、その「美学」に付き従う、ミレーヌやジタンといった幹部たちの、組織の論理とは別の次元での強い結束。

ライジンオーの敵幹部モンスターが、部下のジューノイドたちに見せた、奇妙な庇い合いと友情が、人間臭さや生命の悲哀を表現していたのに対し、ルードヴィヒのそれは、機械的なまでの冷徹さそのものであり、その人間味の欠如が逆に「組織という悪」の、冷酷な不気味さを表現しているのです。

この「美学」に対立するのが、ネクライムの創設者であり総統のフューラーです。

彼は、一見、世界支配を目論む「悪の帝王」のように見えますが、その正体は、 immortality (不死) を求め、自らの欲望のままに組織を利用する、大いなる「俗物」に過ぎません。

「え、悪の首領が、ただの profit-making (営利) と immortality (不死) が目的!?」

と、私の脳内には当然といえば当然すぎるツッコミが渦巻きますが、この番組はそんな俗物性を隠すことなく描いていきます。

この、俗物性(フューラー)と、悪の美学(ルードヴィヒ)の深刻な確執と野心こそ、バイオマンのドクターマンとモンスターの関係とは異なる、ネクライムという組織を動かすもう一つの冷徹なエンジンでした。

自己存在の根源的問い:同一人物疑惑と、周囲の心理

さらに物語後半、制作側は私たちに、ロボットアニメの枠を超えた非常に哲学的なメッセージを突き付けます。

「総統フューラーとウラシマンが同一人物?」という疑惑。

この、タイムパラドックスがもたらす「自己存在の根源的問い」が、周辺人物たちの心理的動揺を引き起こします。

ライジンオーの第10話が、子供たちに「嫌なものがない世界=楽園」ではなく、「嫌なものとも折り合いをつけ、責任を持って共存する世界」こそが現実であることを突き付けたように。
バイオマンの最終回が、究極の科学を手に入れても、自らの内にある人間の心(情)までは決して消し去ることはできないと突き付けたように。

ウラシマンのこの疑惑は、リュウ自身、そして彼を信じて戦ってきた警察の仲間たちに、「自分たちが戦ってきた相手は、リュウの未来の姿なのか?」という、自己存在の不確かさと運命の不条理さを突き付けます。

仁たちが「なぜ18人なんだ」と、自分たちが背負わされた運命の不条理さに直面し、子供らしい純粋な友情と、地球を守る責任との間で激しく揺れ動いたように。

リュウたちもまた、自己存在という根源的な問いを前に、激しく揺れ動きながらも、「心」と「正義」を信じて戦い抜く。

今にして思うこと。

それは、どれだけ社会が高度化し、組織化や効率追求が優先される世の中になろうとも、ウラシマンが貫いた「心」や「友情」という、真っ直ぐな想いを、私たちは心のどこかに持ち続けられているだろうか? ということです。

圧倒的な組織という悪を前にしても、自らの信念(心)を武器に戦い抜いた彼の姿を。

そんなハードでドラマチックな問いを、皆さんもぜひ共有してほしいと思います。
放送開始40周年を記念した廉価版DVDも発売されていますので、今こそ振り返る絶好のチャンスです。

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